イベリア半島に生息する生物

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 母親の体内にいたときのことはさすがにまったくおぼえていないのですが、ほら、今おなかのあかちゃんが蹴ったとは言うのに、叩いた、突いた、パンチしたとは言わないことまで最近の自分は遡って考えるようになっており、何かを蹴りたい本能がヒトには先天的に埋めこまれていて、ときどき意識の間隙をついて姿を現すのだと思います。

「ちゃんと考えながら行動しろ」

 そういった本能をおさえこもうとする頭には、埋めこまれていないのだと思います。

「ムダな動きはするな」

 世間と一番近い所で接してちょくちょく状態を変える皮膚などの浅い場所ではなく、もっと体内の奥深い所に本能は埋めこまれているのだと思います。

「ムダな動きはするなよ」

 皮膚でつつみこんだ頭をサッカーボールと見立てて思いきり蹴りとばしたい気分にかられることもありますが、意識をきちんと保っていれば、そのような気分にかられることはめったにありません。

「わかったか、タロー?」

 自分ももういいかげん高校生になったのだからという自覚があるいはめばえてきたのかもしれません。

「……はい」

 コントロールするとおりに動かない自分の体というものを最近では恥じ、たまたま誰かの目の前でそのような動きをとってしまったときにはいたたまれず、弁解することばかりに頭が働き、皮膚も紅潮するのが自分でもわかります。

「それで、なんで今首のばしたんだ?」

 自分の体すべてを臀部と見立てた尻拭いをする気分におちいります。

「……えぃーっと」

 自分の首がかってにのびてしまった瞬間、やっちったと思い、すぐさま弁解の言葉を考えましたが、そうかんたんには思いうかびません。

「なんでだ? 何か理由があるんだろ?」

 体がかってに動いただけの話です。

「いや……ええまぁ」

 体のほうが正しい答えを知っていることもあり、その目的や理由を考えたりもしますが結局わからず、頭で弁解の言葉ばかり考えるのです。

「もしかして〝体操〟か、タロー?」

 自分がこのように弁解の言葉につまっていると、自分の体の動きを目のあたりにした相手の方が助け舟をだしてくれることがあります。

「……そうです、体操でした」

 その場をうまくやりすごすという意味では助け舟ですが、もちろん自分にそのような明確な意図があったわけではありません。

「そうか、体操だったのか」

 自分の体が勝手にとった動きに〝体操〟という名前があてられ、さらに〝首の伸縮運動〟や〝クールダウン〟といった名前もあてられ細分化されます。

「……ええ」

 そのように一つ一つに名前をあてていくことで一つまた一つと未開の動きがへり、自分は〝ヒト〟から〝人間〟に着実に進化をとげているきもちになることがあります。

「クールダウンの体操だったら、今やるな、わかったかタロー?」

 それでも完全になくなることはないように思います。

「……はい」

 心の中ではそれでもいいように考えて、心おきなく体の動きにまかせることのできるこの物事をはじめたのだと思います。

「今がどういう状況かわかってるよな?」

 ただ最近は日常生活よりも体の動きの縛りがきついように感じています。

「……はい」

 今日の結果の責任が自分にあることは自分でもよくわかっています。

「試合中も、ムダな動きが多かったからな」

 体の動きの縛りについて感じるのは、とくにこの高校に上がってからのここ最近のことです。

「……はい」

 根本的なことに思考がすぐに及んでしまうのです。

 何故自分はこの物事に一日を通じて最も多くの時間をさいているのか。

 何故自分はこの物事に最も多くのお金をかけているのか。

 何故自分はこの物事を無賃でやっているのか。

 何故自分はこの物事をしているのか。

 何故自分はこの物事をはじめたのか。

 現在の自分においてこの〝物事〟とはサッカーという名前自体が専門用語のようなスポーツのことをさします。

「イレブン一人一人がムダな動きをなくして、チームとして一つのサッカーを結実するんだ」

 この丸くて白いボールを蹴ることすら、最近では労働のように感じることがあります。

「わかったか、一年生、二年生!」

 受験勉強のために三年生の大半はすでに春で引退しており、今日の試合に出場したのは一・二年主体でした。

「こんなまとまりのないサッカーをずっとしていたら、三年に示しがつかないだろ?」

 三年生で出場したのは二名のみで、今日の試合の敗北で引退となりました。

「一・二年は今ここで筋トレやれ」

 三年生引退の感傷をこえるくらい、今日の試合のふがいなさに監督ははらわたが煮えくり返っているようで、三年生以外の一・二年全員に筋力トレーニングを命じたのです。

「全身の筋肉を鍛えて、自分の体をきちんと調教するんだ」

 いつもは練習後におこなう腕立て伏せ・スクワット・腹筋・背筋の筋力トレーニングを三セットおこなったあとで、さきほどの自分の〝ムダな動き〟へのダメ出しのみでは不公平と感じたのか、試合に出場した一人一人に注文をつけます。

「コーキ、ドリからシュートのテンポ、もっと速く」

 ただでさえ専門用語の臭気のする単語を、ドリブルを〝ドリ〟やダイレクトを〝ダイレ〟と、さらに省略していきます。

「オグヒロ、ダイレではたけるところはダイレではたけ」

 何故自分は今この場にいるのか。

「ハマ、トラップしっかり」

 何故自分は今この場にいるのか。

「クニカズサトウ、ムダなファウルはするな」

 何故自分はサッカーをはじめてしまったのか。

「ドナドナも、ムダなファウルはするな」

 サッカー自体は、ほかのスポーツより〝なんか自由そう〟と気軽に考えて小学校三年生からはじめたのです。

「タカハシ、ムダなフェイントはするな」

 もしその当時に演劇、ダンスなどの選択肢があったらそっちを選んでいたかもしれません。

「カツ、パスが雑だぞ」

 中学校の時には県の選抜選手にも選ばれ、来週対戦する高校やほかの強豪校からも推薦入学の誘いをうけていたものの、入学したのは大した実績のないこの高校でした。

「ワンくん、もうすこしだけオフサイ気をつけてな」

 県選抜としていろいろな選手を目にしたことで自分は身のほどを知り、全国大会に出たい等の向上心はなく、ボールを蹴って楽しめそうな高校を選んだつもりでした。

「タカトシンイチロウ、キャッチとパンチングの見きわめしっかり」

 しかし実際入学してみると、自分のほかにも地区の選抜選手等が偶然入学してきた学年であり、次々と細かい戦術をもちこんで全国大会出場をめざすようになったのです。

「クリキン、相手のフクセン読みちがえるな」

 フクセンとはもとはサッカー単語ではないそうで、相手の企みの前触れといった意味なのだそうです。

「タク、お前のオーバーラップ相手に読まれてたぞ」

 良いチームというのは、そのフクセンを一人一人が相手に読まれないことにあるのだともよく言います。

「ノブ、常に頭上げて視野確保しながらサイドチェンジな」

 自分と同じ一年生が今注文をつけられている〝サイドチェンジ〟の問題は、自分も持病のようにかかえています。

「サイドチェンジにかんしては、タローもだな」

 県の選抜ともう一つ上の選抜や日本代表との決定的な差がここにあるのだということは、自分でもわかっているのです。

「フォワードでもサイドチェンジは必要だからな」

 簡単に一言で言うと、テレビの映像のような俯瞰した視点をもっているか否かの問題です。

「わかったか、タロー?」

 地上世界で目の前の相手と対峙するとついつい勝負したくなるのだけれど、傍から見ているとその狭い勝負の先には何もない。

「わかったか、おい、タロー?」

 ガラ空きになっている反対サイドの味方の状況を察知し、この勝負の負けを自分から潔く認めて、反対サイドまでボールを蹴ることができるか――これを文字どおり〝サイドチェンジ〟と言います――これは空間を正確に把握する視野の問題とも言え、先天的な〝才能〟によるところの多い力だと思います。

「きいてんのか、おまえ」

 ボールあつかいは毎日触れていれば県の選抜のレベルくらいには簡単になれると思うけれど、この視野に関しては頭ではわかっていてもどうにもならない部分があります。

「ちゃんと返事をしろ」

 たとえば、自分では問題だと重々承知しておきながら、自然とサッカーのことばかり考えてサイドチェンジのタイミングを完全に見失っている、今の自分のような。

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 彼女とは中学二年のときに知り合いました。

 同じ県の選抜だった橋崎賢也(はしざきけんや)――弟の〝橋崎聖也(せいや)〟の名前でネット検索すれば、たくさんでてくると思う。Jリーグの下部組織に所属している十四歳以下日本代表の〝橋崎聖也〟の兄・賢也の紹介で、彼女とは知り合ったのでした。

「ケンちゃんは勝ったみたいよ」

 橋崎賢也と同じ中学校のクラスにいた女子で、橋崎賢也の彼女と一緒に試合を観にきていたところで知り合ったのです。

「6‐1」

 自分は語彙がまだ足りないからこう言うしかないけれど、彼女はべつに男をあさりにきていたわけではなく、心底サッカーが好きなようであり、純粋に観戦していたのだそうです。

「圧勝」

 まだあそびにいったことは一度もないけれど彼女の家もサッカー一家であり、兄はあの〝東茂(あずましげる)〟――ネット検索すれば、たくさんでてくると思う。昨年の日本高校選抜で、現在は東京の強豪大学でサッカーをしている人物なのです。

「ケンちゃんも途中出場で一点きめたんだって」

 自分は知らぬ間に〝サッカー〟という業界の人間関係のみに囲まれているように思うことが最近しばしばあります。

「決勝であんたとケンちゃんが当たったらよかったのにね」

 橋崎賢也のほうは全国大会常連の名門校にそのまま進学して、部員数一〇〇をこえる中で一年生でベンチ入りを果たしている。自分とは状況がちがうのです。

「まぁ当たってたら間違いなくボコられてただろうね」

「なこと言って」

 携帯電話の電波の問題とは関係なく、彼女はときどき語頭のききとれないしゃべり方をします。

「まぁ勝っても負けてもどっちでもいいや」

「またまた」

 自分が何かわざと悪びれているようにあつかっているようだったので、素直な一言を加えておくことにしました。

「全然たのしくないんだよね」

 そうなの、と小声でたずねてくるので、時給が発生してもおかしくないくらいやらされてる感が強いとかえした。

「部活やめて、ほんとバイトやっちゃおっかな」

 彼女に言うのははじめての言葉かもしれません。

「本気で言ってる?」

 自分はフィールドにいるときしか興味をもたれていないのだと思います。

「……もうちょっと考えるけど」

「タローくんにはサッカーしかないんだから」

 直接会うのも練習後や試合後のフィールド付近が多く、電話の話題もこのようにサッカーが多いのです。

「そもそもタローくんもケンちゃんと同じ高校に行っとけばよかったのよ」

 あんた絶対中学ん時より下手になってるわよと、ため息まじりに語をつぎます。

「この高校にいたままだと、あんた腐るわよ」

 彼女は試合の内容に満足できなかったとき、自分のことを名前ではなく〝あんた〟と呼ぶことが多くなります。

「二週間ぶりに観たけど」

 先週の試合は、家族全員で東京まで東茂の試合を観にいって自分の試合は観にこなかったのです。

「あんた消極的なのよ」

 そしてサッカー用語満載のダメ出しをしたのです。

「今日のあんたはクサビもすくなかったし、プルアウェイもすくなかったし、ハーフタイム直前のアーリークロスにファーでフリーになってもシュート打たないで味方にオトシちゃって、あそこはダイビングヘッドでしょ、まったく」

 今日の試合でもやはりサイドチェンジができていなかったことも咎めました。

「そういや」

 試合に負けたことが当事者の自分以上に悔しかったらしく、試合後もずっと席から立ち上がれなかったらしい彼女のダメ出しが止まりそうになかったので、自分は話をそらす目的を一番にきりだしたのです。

「何」

「そういやですね」

「だから何」

 語尾を上げずに低い声のままきいてきます。

「……試合後声をかけられて」

 誰に声をかけられたのか、何故今このタイミングでそんなことを言うのかをつづけてきいてきましたが、自分は前者の質問にたいしてだけ〝名古屋よし子〟とこたえました。

「……誰それ?」

 名古屋の役所の見本みたいな名前、と自分で言って自分ですこしだけ笑ったようです。

「……名刺もらったんだ」

 〝名古屋よし子〟という自分の母親と同年代くらいに見える年配の女性と別れたあとに携帯電話で検索をかけてみましたが、〝橋崎聖也〟や〝東茂〟のような結果はでませんでした。

「それで、その〝名古屋よし子〟が何?」

「……僕もよくわからないんだけど、今日の試合ずっと観客席から観てたらしくて」

 県大会の準決勝だったということもあり、県内で一番大きいスタジアムで今日は行われたのです。

「へえ……で?」

「でって」

 だから何かの話があったんでしょと、このやりとりにもダメ出しをしかねない状況になります。

「どうせ今日はあなたダメでしたねとか言われたんでしょ」

「たしかに試合の感想もあったけど……」

 県内で一番大きいスタジアムではありますが、青い座板がしつらえてある観客席はメインスタンドの二百席ほどです。

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 自校や相手校の応援団等が陣取るバックスタンド、ゴール裏は芝生になっていました。

「三年生おつかれさん」

 試合終了の笛が鳴り、両校握手をかわしてそれぞれの応援団に一礼をして、スタジアムの控え室に戻り、ミーティングがはじまったのです。

「一・二年がおまえたちの分もこれから頑張るからな」

 一・二年生に対してのみ筋トレをさせながら、三年生に声をかけます。

「来年こそは全国にいけるよう頑張るからな」

 自分たち一・二年生たちも今日で引退することとなった三年生たちに一人一人挨拶をしてミーティングは終了し、自分は足早に控え室をあとにしました。

「なんすか?」

 サッカーが本当に好きだったら今日を最後にする必要はないと思うことと、今日の自分の出来が敗因の一つであるので、引退する三年生たちに大げさな言葉はかけませんでした。

「はい?」

 水で顔を洗うと、もともと色白で日に焼けない肌質なのですが、ひりひりします。

「そうです、はい、僕です」

 脱いだ〝プーマ〟のスパイクシューズと〝ナイキ〟のユニフォームを〝アディダス〟のエナメルバッグの中に入れながら、関係者口から外にでたところで女性につかまったのです。

「はい?」

 自分は身の回りの物さえ専門分野のメーカーに囲まれているのです。

「……ええ、はい」

 自分と周囲の隙間をぬって現れたかのような姿勢がすこし波をうったその女性の言っていることが、自分にはよくわかりません。

「すんません、もう一回言って下さい」

 この試合をずっと観客席から観ていたのだと言います。

「……はぁ、どうもありがとうございます」

 冷静な観戦の感想を自分に伝えました。

「……なるほど」

 嫌々やっている感じがするといった、自分の内面まで突く鋭い感想です。

「そうかもしれません」

 内面まで突いている点で、自分の彼女より鋭いかもしれません。

「……はぁ」

 試合後にわざわざ感想を伝えにくる父兄やサッカーフリークは今までもいたので、そういう関連のひとかと確定しかけたところで、その女性は本題と思しきことを声音を一つ高めてきりだしました。

「はい?」

 年齢は五十代前半くらいでしょうか。

「僕にですか?」

 一筆で書けそうなくらい淡白な顔の女性ですが、妙にインパクトをおぼえます。

「僕がですか?」

 舌のせいでしょうか。

「……三ヶ月」

 眼球のような舌がときどきのぞくのです。

「学校もありますし」

 そのような舌の習性を自覚してのことでしょうか、単語まで細かく区切ってしゃべります。

「休、学、していった人がいるんですか」

 自分はすこしそのしゃべり方を真似て反復しました。

「でも僕、所詮県選抜どまりですよ」

 結論は今ださなくてもいいのだそうです。

「……大体自分の力がどのへんにあるのかわかってますし」

 どのみち選考をうけなくてはいけないのだそうですが、それでも女性の見立てでは、決断さえすればキミの〝ポテンシャル〟なら選考のほうは通ると言います。

「……ポテンシャル」

 サッカーの専門用語のようにもすこしだけきこえました。

「……まぁすこしだけ考えてみます」

 最近の自分はちょっとした言葉にすぐそのような印象をおぼえてしまうのかもしれません。

「試合の感想もありがとうございました」

 このあと喫茶店にでも的なことを言われましたが、恒例の彼女との電話での反省会があるので、〝名古屋よし子〟という印字の入った名刺を頂いて帰宅したのです。

「で、試合の感想以外何があったの? 早く言いなさいよ」

 もったいぶらないでよという彼女の言下、自分は名古屋よし子の話の本題をようやくきりだしました。

「スペインに行かないか、だって」

「リーガ・エスパニョール?」

 東茂や両親の影響もあり、彼女は海外のサッカー事情についても自分より詳しいのです。

「いや、プロじゃない。スペインでサッカーしないかって話」

「ほんとに?」

 今日のあんたのプレー見て、そんな話来る? とせせら笑いをはじめた彼女を予期していたので、自分はこの話をすこしためらったのです。

「……ポテンシャルがどうとか」

「……ポテンシャル」この言葉にはスポーツフリークを黙らせる力があるようです。「テンシャルときましたか」

「選考もあるけど、通るだろうって」

「それで、どれくらいの ――」期間・レベル・費用という〝どれくらい〟がかかる質問を連続してきたので、三ヶ月・知らない・航空費だけと即答しました。「学校はどうすんの?」

 前に行った日本人は休学したと告げると、まぁ三ヶ月だけなら留年にもなんないかぁと彼女のほうが状況を補強します。

「だったら行ってくればいいじゃん」

 まぁ、選考に受かったらの話だけど、と挑発的な語をつぎましたが、自分は事実しかうけとりませんでした。

「たしかに」

「今日のあんたの出来からして、手広く声かけてんだろうし」

「たしかに」

 たしかに県大会準決勝での自分の出来はひどく、試合後にこのような話をもちかけられることに、自分自身とても違和感がありました。それでも三十名ほどと一緒に東京で選考をうけ、合格し、彼女と先生にも強く薦められたこともあり、一学期間の休学を申し出て飛び立つことにしたのです。

「レアルとバルサの試合はちゃんと頭に焼きつけなよ」

 と自分の記憶の分野にまで彼女は最後に指示をだしていましたが、自分がスペインで滞在するのは、〝レアル〟という世界的なチームがある首都マドリッドでも、略称〝バルサ〟があるバルセロナでもなく、田舎町なのだそうです。

「ここが宿舎だ」

 主催団体の意向により、合格者はスペイン各地に一人ずつ派遣するとりきめになっているようです。

「これがおまえの部屋の鍵だ」

 一緒に選考をうけて合格した〝帝京(ていきょう)〟や〝鹿()(じつ)〟の選手はバルセロナやマドリッド、バレンシアなどの都市部、自分は田舎町への派遣となりました。

「ここで、オレとおまえはお別れだ」

 ポルトガルがどこにあるのかわからないけれど、〝ポルトガル寄り〟の田舎町なのだとすでに機内で言っていました。

「六時にこの門の前で待ってる。ここに来る。わかったか?」

 自分より二十は年上ですが敬語ではない方が合っているように感じたので、アムステルダム空港、マドリッド空港と乗りついできた道中、ずっとタメ口をきいてきました。

「……わかった」

 自分はそのスペイン人コンダクターとアディオスと掛け合って別れたあと、四階建ての宿舎の自室に入り、ベッドに横になりました。

〈明日午後六時か〉

 日本を離れてから誰ともまともに会話をしてこなかったせいか、独り言がいつもの五倍は多い気がします。

〈大丈夫かな、言葉通じなくて〉

 〝やあ〟が〝オラ〟、〝さようなら〟が〝アディオス〟、〝ありがとう〟が〝グラシャス〟とだけ教えられています。

〈ま、いっか〉

 この三ヶ月の目的はもちろん語学ではありません。

〈どうせすぐだし〉

 サッカーがうまくなりたいという向上心も実はそんなにないのです。

〈たった三ヶ月だし〉

 たった三ヶ月だしと開き直り、周囲が薦めるままに、人種も風土も言葉もことなるスペインに来ただけのことです。

〈サッカーなんかもうやめたっていいんだ〉

 スペインについた初日の夜も、大体考えたのはそのようなことでした。

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 〝サッカー〟という名前の物事ととくにこの高校生になってから距離をおくようになっていることは自分でも自覚していますが、その一方で自分は何故この〝サッカー〟をはじめてしまったのかといった根源的な問題を考える機会をえたことともなり、サッカーそのものの由来についても一度調べてみようと、昼休みに図書室に行ってみたことがありました。スペインに出発する一ヶ月すこし前のことです。サッカーの由来という全体の歴史が一個人の自分に内蔵されているのではと思いついたためでした。自分は足掛け九年間サッカーをしてきたのに、サッカーの由来については一切関心をもったことがなかったのです。〝トラップ〟・〝パス〟・〝シュート〟の模範を図示するサッカーの本は〝スポーツ〟の棚に数冊ありましたが、サッカーの由来まで書いてある本は結局自分一人では見つけることができませんでした。図書室の日直の人に協力してもらってようやく見つけることのできた本には、手をつかっても何をしてもよかった前身のフットボールを、十八世紀のイギリスにおいてルール化し紳士的なスポーツとして生まれ変わらせたのがサッカーという文章がありました。あまりしっくりときません。サッカーの由来を参照することで、高校で現在しているサッカーは誤っていると言いたい希望があったのですが、その由来の延長線にきちんと存在しているのが現在のサッカーという事実を逆につきつけられたようなきもちに浸ります。Association(協会・連合)の省略・soc+er(人間)という名前の由来も知り、〝サッカー〟という名前そのものも使う気が失せました。この物事には必須のサッカーボールの由来については、イギリスの植民地だった地域で歴代生産されてきたという、学校の世界史的な情報がすこし載せてあるのみでした。何故ボールは白くて丸いのかについては何も記述がありませんでした。思えばサッカーに限らず大半の球技で使用されるボールは白くて丸いです。何故ボールは白くて丸いのか。そして何故自分はあまたある球技の中でサッカーを選んだのか。このサッカーという物事に今〝そもそも〟を叩きつけている以上、自分は本当はこの物事を選び切ってはいなかったのかもしれません。足がかりでしかないのかもしれません。わかりません。サッカー発祥の地というイギリスと同じヨーロッパにあるスペインに来たら何か思いうかぶかと思いましたが、やはり日本の最近の日常とかわりません。時刻は約束の午後六時になります。

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 部屋の番号を彫りつけてある見た目銀製・手触り木製の鍵で部屋のドアを閉めて、階段をおり、ロビーの男性に挨拶をかえして、宿舎のそとにでます。

「……オラ」

 標高はそれほどないのだろうけれど茨のごとくとげとげした稜線が妙な威圧感をあたえる山々を見はるかしながら、敷地そのものの門の手前に立ち、車の迎えを待つことにします。

〈……六時って言ってたよな〉

 コンダクターのスペイン人は午後六時と昨日言っていました。

〈……午後ってちゃんと言ってたよな〉

 おそらく一〇〇キロ以上むこうにあると思われる山々ですが、町内に高層建築があまりないようなので、とても近くにあるように見えます。

(ティー)(エー)(アー)(オー)

 視線を宿舎の白壁にうつし、白色がクリーム色に見えてきたところで、肩をやや強めに叩かれました。

「タロー?」

 額にほくろが三つ横並びになっている男性に名前だけ確認されて、車に乗りこみました。

「……オラ」

 という自分の返事が〝オレ〟の訛りのようにきこえました。

「オラ」

 定員七名の黒色のバンでしたがどうやら二人きりで向かうようで、この運転手も自分と二人きりが気まずいのか、速度をかなり上げています。

〈……写真で見た気する〉

 巨大なコインのようなスーパーマーケット、自治会所のような教会、平屋のピザ屋、パン屋、果物屋、肥えた鳥のマスコットが置いてある店か住宅。

〈……ここが町で一番の繁華街なんだろうな〉

 総体としてのエンゲル係数が高い印象をうけたこの町の繁華街の写真は二、三枚名古屋さんからもらっていて、その写真どおりの風景か、たて四cm×よこ六cmの写真の延長線に収まる洋風建築の風景ばかりがつづいています。

〈……まぁ観光で来たわけじゃないし〉

 所属することになるチームの練習場までの交通手段については一切きいていなかったので、徒歩の圏内だとばかり思い、このような気まずい沈黙が練習の前に存在しているとは知らなかったのです。

〈……ウォークマンでももってくればよかった〉

 試合前は音楽をきいてモチベーションを上げた方がいいと言って四千円で買わされた彼女のお古のウォークマンは、日本に置いてきました。

〈……まぁしょうがない〉

 忘れたのではなく、あえて置いてきて、スペインにいる三ヶ月くらいは日本の前向きなポップソングの類からも離れようという心意気でした。

〈……送ってもらうのに連絡なんかしたくないし〉

 ウォークマンをもってくればよかったという後悔を十二、三回したところでバンは停車しました。

「……グラシャス」

 長屋状になっているプレハブがあり、その奥に一見して人工芝とわかる照明付のフィールドがあります。

「ケンバックケンバック」

 おそらく練習がおわったあと迎えに来るという意味の運転手の英語をきいてから下車し、更衣室と思しきプレハブの中に入り、オラ、と言って練習着に着がえすばやくフィールドにでました。

「オラ」

 日本人が入ることをきいているのか、あるいは人の出入りには慣れているのか、初見のチームメイトたちは個々の準備を淡々とすすめていました。

〈チームに迷惑はかけないようにしないとな〉

 ボールが外に出ないために築いてある金網の中のフィールドに立つと、緊張感がいっそう高まります。

〈ムダな動きもしないようにしないと〉

 五部まである内の一部に属し、プロのユースからこぼれた選手が集まるチームという、事前の情報が頭の中でふくらみます。

〈……すみっこの方で体操でもしてるか〉

 心の中の言葉と独り言をはっする自分自身を唯一の友のように見立てて、自分は金網と接した隅で号令がかかるまで体操をはじめました。

〈……変な動きしてくれるなよ〉

 町内で一番高いかもしれない約十五mの金網を万が一ボールがこえた時のためか、外にでることのできる扉が数箇所あります。

〈……まだかな〉

 練習の開始時刻をまわり続々と集まるチームメイトたちも、一つ一つの部位を動かしたメンテナンスのような体操や、おしゃべりのようなボールの蹴り合いをはじめます。

〈……監督がまだ来ないのかな〉

 そのまま三十分以上が経過し、監督はまだなのかといった独り言を十五回ほど吐いたところで、チームメイトだと思っていた輪の中から全体にむけて声をだす者が現れました。

 タロータロータロータロー

 自分の目には同い年か一、二歳上にしか見えないものの、〝監督〟のふるまいを見せて自分の名前を全員に紹介し、すぐに実戦形式の練習をはじめます。

 タロータロータロータロー

 結局全員を集めたのは一度だけでした。

 タロータロータロータロー 

 犬のような自分の名前を何度も犬のように呼びつけて、とりあえず攻撃的な位置に自分をおきました。

 タロータロータロータロー

 笛などは用いずボールを互いに蹴り合っているうちに既成事実のようにゲームがはじまり、敵・味方の緊張感もなく笑い合いながらサッカーをします。

 タロータロータロータロー

 自分の目には、あきらかなムダな動きも見てとれます。

 タロータロータロータロー

 監督は何も言わないばかりか、自身も片方のチームに混ざって必要のないリフティングやフェイントをしています。

 タロータロータロータロー

 口ぐせのように言いつづけるこのタローの連呼も一つで、響きが面白いのか、自分と関係のない場面でも呼びます。

 タロータロータロータロー

 監督に共鳴して連呼をはじめたチームメイトもいます。

 タロータロータロータロー

 足元の技術のみで見れば県選抜でもざらにいるような選手ばかりの印象ですが、そもそも別のスポーツをしている印象も同時におぼえます。

 タロータロータロータロー

 基本動作の〝トラップ〟(ボールを止めること)・〝ドリブル〟(ボールを前に蹴りすすめること)・〝パス〟(ボールを味方にわたすこと)のそれぞれの範囲がちがうような、これまで日本で長年教えこまれてきた用語の一つ一つがとり去られる印象も同時におぼえます。

 タロータロータロータロー

 解放感よりとまどいの方を強くおぼえています。

〈……どうしよう〉

 トラップにはボールを止める以前の動きが含まれ、止めた動きがすでにドリブルの一歩目になり、数歩目がそのままパスになります。

「……アディオス」

 顔の彫りの深さがそのまま体の筋肉に投影されているように思うくらい、練習後のプレハブで見た彼らの腹筋はきれいに割れていましたが、日本の部活のような筋力トレーニングはなく、実戦形式の練習のみで終わりました。

「チャオ」

 アディオスと言ったのにチャオと返されて別れ、待機していたバンに乗り帰途につきました。

〈……明日もあんな感じかな〉

 午後九時半すぎに宿舎に着き、一階の食堂で夕飯を食べて、自室に戻りました。

〈……いいのかな、こんなんで〉

 スペインではシエスタという〝昼寝〟の習慣があるらしく、日本より生活習慣が二時間繰り下がっているようです。

〈……三ヶ月間〉

 午後六時半にはじまる練習というのも人生初でした。

〈……まぁとりあえず初日の練習はおわりだな〉

 スプリングのやや甘いベッドに横になり、今日一日のしめくくりに頭は入っていましたが、体は蠢きつづけています。

〈……初日はおわりだな〉

 練習後はいつもぐったりするものですが、あの練習自体がウォーミングアップだったかのように、体が今になってよく動き、眠りたい意識となかなか折り合いがつきませんでした。

〈スクランブルの方にするか〉

 朝起きると、全身の血管がミミズのように蠢いているのがわかります。

〈……スクランブルだって〉

 体の方は一睡もしていないのかもと、体と意識を分解して考えながら食堂に向かい、セルフスタイルの朝食の中から、スクランブルエッグをとろうとしました。

〈……今度はスクランブル〉

 しかし手は目玉焼きの方をとったので仕方なく平らげ、今度こそスクランブルエッグをとって食べましたが、口にはこぶ手と口の動きもうまく連動せず、食後部屋に戻る足どりもぎこちなく思います。

〈……これが時差ボケってやつか?〉

 そしてベッドにふたたび横になりながら昨日の練習のことを自然と考えます。

〈……チームより個人の能力の方が大事なんだろうな〉

 五部の中で移籍が茶飯事にあるクラブチームと、原則三年間所属する日本の部活制度のちがいなのかもしれません。

〈……いいんだろうか、あれで〉

 わかりやすい成長を見せつけないと、サッカー部の人間や彼女にも〝観光〟となじられるのは目に見えています。

〈……そろそろ筋トレでもやりにいくか〉

 と思い立ってから一時間半後にようやく立ちあがり、宿舎に隣接するジムにいきましたが、バーベルを五、六回上げたところでなんとなくバカらしくなって再び部屋に戻り、午後六時にバンに乗りこみました。

〈……やっぱウォークマン送ってもらおうかな〉

 練習場に着いたのは午後六時半を数分まわったところで、初見、もしくは、別のスポーツと思いこんでいたメーカーの練習着をまとい、選手たちは各々練習をしていました。

〈NewBalanceって陸上じゃなかったっけ?〉

 一選手のように一人でボールを蹴ってあそんでいた監督が全員に今日もゆるい集合をかけて、昨日不参加の者もいたのか、自分の名前をあらためて紹介してから、実戦形式の練習に入ります。

 タロー、ウィラックス、ウィラックス

 と英語らしき言葉を用いて、監督は肩をもみほぐしました。

 タロータロータロータロー

 昨日と同様に笛は用いずゲーム開始が既成事実のようにはじまり、自分にもすぐさまボールが回ってきました。

 タロータロータロータロー

 郷に入っては郷に従えといった気分で、ためしに〝トラップ〟と〝ドリブル〟を分割しないようにしてみました。

〈もっともっとスムーズに〉

 そのうちに相手選手ではなく味方選手が自分のボールを引き継ぐように奪い、結果〝パス〟となります。

〈……裏に走るか〉

 もう一度自分にボールが来ることを信じて、相手選手の後方の〝裏〟のスペースに走りましたが、味方が途中でボールを奪われてしまったようです。

〈しょうがないな〉

 とわざわざ心の中でつぶやいて、自陣に一度引き返そうとしました。

〈……ん?〉

 頭では引き返そうと思っているのに、足が言うことをきかないのです。

〈……いッ〉

 相手ゴールに向かって走りつづけ、ゴールポストの鉄柱にぶつかる寸前で、急に右に曲がりました。

〈……おいッ〉

 そのままフィールドの石灰の白い線もこえ、金網に一度体当たりでぶつかってから右側の扉を見つけて狡猾にノブをひねり、フィールドの外にでていったのです。

〈……おいッて〉

 自分でもまったく意味がわからないまま、着の身着のまま突然走りだしたのです。

 頭部がもちあがりたがる。

 頸部がのびたがる。

 右の肩がいかりたがる。

 左の肩がすくみたがる。

 背部がこわばりたがる。

 腹部が蠢きながら胸部や腰部に面積を拡張したがっている。

 突然勝手に走りはじめた自分の体はいったいどこに向かっているのだろうか、あるいは、行き先も目的もなくただやみくもに走りはじめただけなのだろうか。このような意識下の問いに一切こたえることなく、三つ並びのほくろの運転手が待機しているはずのバンに一瞥もやらず、体は後方のフィールドを振り返ることなく走りつづけている。表面の皮膚を食い破るような拍動や血流がすさまじい。すでに一、二キロは走っているだろうか。それでも自分が本気をだして止めようとすれば、体はかんたんに止まり、フィールドの方に引き返してくれるだろうと高を括っていたのだが、三キロほど走ったところでそろそろいいだろうと止めようとしたが、止まらない。そればかりかいくぶん速度を上げる。全力疾走といったわけではなく、かと言ってジョギングほど遅くはない速度で走りつづけている。下半身のみが勝手に動いているのではなく、上半身も各々の部位が各々に動いており、はたして連動する意図があるのかは自分にもわからない。〝自分〟とは今の状況下にあって単なる一個の意識であって、コントロールできる部位をもたない以上、存在としては弱い。意識とは頭部にあるとばかり思っていたが、その頭部すら意識から離れようともちあがりたがっている。今まで抑圧されてきたものから解放されたかのように、身体の各部位、各筋肉や各骨、各血管、部位によっては細胞のレベルまで独立を表明しているように感じる。宣誓する出で立ちのように勇ましく屹立をはじめた性器ぐらいコントロールしたいところだが、トレーニングパンツの膨らみをおさえるための手すら言うことをきかない。自分の意識の裏をつくような体の動きを楽しんでしまう自分もいて、走っているうちに徐々にそれも気にならなくなっているように思う。残照はすでになく、月の光や数キロ先の町の明かりをたよりに走っている。障害物などない一本道なのに、ときどきジグザグに走る。突然鼻が眉間にまで皺を寄せてひくつく。視線ごと頭部を左右にふり、十数秒後、この小高い道路から右手に駆け下りていった。月明かりの届いていない茂みに入り、そのまま道路からどんどん遠ざかっていくのかと思いきや、灯籠のように垂れ下がっている赤いトマトを三個ばかりもぎとってふたたび道路にもどってくる。まんなかではなく路肩を走る。このトマトをすべて食べつくしたあとにまたすぐ道路から外れられるように際を走っているだけなのかもしれない。車の通りをおそれているとは考えづらい道である。路肩の境界が蔓草でぼけているこの車道は一分間に一、二台が通る程度の道路である。しかしそれもはるか遠くに見えていた町の点状の光に近づくにつれて、格段と交通量が増えてきている。すでに自分自身の体がその光の点の一つを担っているようにも思う。左右に木々ではなく住宅が並びはじめた頃には、道路そのものも太いセンターラインをもつ車道に変わっていた。バンの車中から見えていた巨大なコインのようなスーパーマーケット、自治会所のような教会、平屋のピザ屋、パン屋……といった町の繁華街の中を、自分は依然トレーニングズボンに第三の勇ましい手をつくりながらすすむ。意識下ではこのまま宿舎にもどることで落着する予感を実のところすこしだけもっていたのだが、そのような淡い期待をも断ち切るかのごとく鋭い左折と右折をくりかえし、たて四cm×よこ六cmの写真の延長線にはないような風景の道にでた。このまま繁華街はおろか町自体を抜けていこうとする構えである。

〈どッこに行くんだッて!〉

 突然走りだして以来はじめて口をついてでた自分の思いだった。

〈おいッ、どッこに行くんだよッ!〉

 この思いはもちろん走りはじめた当初からもっていたものだったが、声帯をふるわせて口からでたのはこれがはじめてだったのである。

〈おいッて!〉

 声帯も口も独立したとばかり思いこみ、自然と遠慮していたのかもしれない。

〈練習はどうするんだよッ!〉

 罵倒するような語調だが、今はとことん体の動きたいままに身をまかせてあげたいという気もある。

〈練習はどうするんだよッ!〉

 〝ムダな動き〟として今までさんざん奉仕させてきたわけなのだ。

〈どうすんだよッ!〉

 今まで走った最長距離は試合に負けた罰で走らされた十五kmだからそろそろかもしれない。

〈ひっちゃんも練習に戻ってって言うと思うぞ〉

 〝ひっちゃん〟とは彼女・〝菱子(ひしこ)〟のあだ名である。

〈ひっちゃん、悲しむぞ〉

 父親が社会人リーグの〝三菱重工〟の頃から〝浦和レッズ〟のファンだったことが名前の由来である。

〈ひっちゃんをうらぎんのか?〉

 自分でも思ってもみない正論をあえて体にむかってぶちまけてみたが、体はまったく反応しない。

〈ひっちゃんのことはもうどうでもいいのか?〉

 体の本音を知りたいのだと思う。

〈……走りっぱなしってことは、そういう意味なんだな?〉

 彼女のことを思いだすとかえって第三の手がひっこむ。

〈……そうなんだな?〉

 体の方が本心に迫っている気がし、日本に帰国したらきちんと別れを告げるべきだという気分になる。

〈……だったらちゃんと言おう〉

 それよりちゃんと日本に帰国することができるのか。

〈……日本に帰れたら、ちゃんと言おう〉

 彼女との共通点でもあったサッカーをも、やはりやめるべきなのかと思い至る。

〈サッカーもやめんのか?〉

 それでもサッカーから完全に離れた実感は薄いのである。

〈……サッカー〉

 すでにフィールドから十五キロ以上離れているだろうが、サッカーから遠ざかっている実感は薄い。

〈……サッカー〉

 ボールはおろか何も蹴っていないし、フィールドの中にも自分はいないが、実のところ〝サッカー〟をほっぽりだしてきた実感は薄く、練習場の人工芝のフィールドと現在地点がきちんとつながっているように感じている。そろそろ〝サイドチェンジ〟をしなくてはという意識も働いているが、体の動きを止めることは今の自分にはできない。自分の体はいったい何をしたいのだろう。ただやみくもに体を動かしながら走りたいだけなのかもしれない。自分の頭が意味や意図を推し量っているまでのことで、現時点でここにあるのはただただ体の動きのみと言っていい。

 頭部がもちあがりたがる。

 頸部がのびたがる。

 右の肩がいかりたがる。

 左の肩がすくみたがる。

 背部がこわばりたがる。

 腹部が蠢きながら胸部や腰部に面積を拡張したがっている。

 繁華街の中に箱型の住宅が一軒二軒混ざりはじめる形で住宅街へと風景はうつりかわり、その住宅の構造そのものも木造からレンガ造りや石造りの年季の入った住宅へと徐々にうつりかわる。もともと一軒一軒の間隔の比較的広い住宅街だったが、さらにひろがり、次の一軒がなかなか見えてこない事態にしばしば出くわすようになった時には、ヨーロッパというよりアメリカの西部劇の舞台となるような荒野に自分の体はでていた。車道はとうに途絶え、石造りの住宅以来すでに一時間以上人家を見ていない。都市部からこの荒野に至るまでの変遷が比較的スムーズだったので、この荒野から次は砂漠になるのか、ふたたび人里が現れるのかと思いきや、ずっと荒野がつづいている。自分はいったいこれからどうなるのだろうか。

 ……はらもへった

 声帯を通して出る言葉も単調になりつつある。

 ……のどもかわいた

 このまま野垂れ死ぬのだろうか。

 ……もうだめだ

 月と星以外に光はなく、ときどき自動車の音がする錯覚をおぼえる以外静かである。

 ……もう動けない

 何故こうなってしまったのか。

 ……誰かむかえにきて

 体の動くままにまかせすぎたのかもしれない。

 ……かあさん

 次に父親の顔がうかびあがり、母方・父方の祖父母、友人、そして順位としてはかなり下の方でようやく彼女の顔もうかびあがってくる。

 ……もうだめだ

 何故か〝東茂〟の顔もうかびあがる。

 ……もうだめだ

 この知人たちの顔をうかばせているスクリーンがわりの部位はいったい体のどこにあるのだろう。

 ……もう動けない

 このような弱音をここ数十分はきつづけているものの、体は依然と走りつづけている。

 ……もう走れない

 とくだん速度が落ちているようにも感じない。

 ……寒い

 それでもさすがに上体のブレは当初よりすくなくなり、山なりだったトレーニングパンツの地形もこの土地とようやく合致したかのように平たくなっている。

 ……のどもかわいた

 肌の表面にふきでていた汗も今は完全にひいている。

 ……ひくまえに飲んでおけばよかった

 具体的な時刻を知るすべはなく、夜のかなり遅い時間帯にあることしか察しがつかない。

 ……寒い

 一番表面にある皮膚には意識がまだ宿っているのか、冬の冷えこみを正確に感じつつ、なおもその冷気を果敢に切っていく。

 ……夜明けをまてってことか

 風景に何一つとして変容のないここでは、これまで普段感じていた一秒一秒の時間も、一秒一秒を正確に刻むルーティンワークをやめて運動しているようであり、たった一秒が数年のように感じる瞬間もあり、逆に重ための一秒のように感じる一時間もある。

 ……ぼくのほうが先にダメになりそうだ

 実際に意識が遠くなるのをすでに数回味わっている。

 ……もうだめだ

 もしかしたら今このスペインに来ていること自体が夢で、このまま意識を失うことで現実の日本にもどることができるとも思うことがある。

 ……もうだめだよ、ぼくは

 しかし地面を一歩一歩踏みしめながら走るこの体の感覚が、現実はこちら側にあることを淡々と述べているのである。

 ……だめだ

 朦朧としはじめているこの意識と体内で共鳴しているのは、右手のように感じる。

 ……だめ

 握力があきらかに弱くなっているように感じる右手と心中するように、意識はさらに下降していく。

 ……だめだ

 実際の声にしているのかもよくわからない。

 ……だめだ

 意識は限界をつぶやきつづけているのだが、体がなかなか解放してくれないのである。

 ……だめ……だめ

 体の方はかえって刻一刻と調子を上げているようにも感じる。

 ……だめ……だめ

 いつのまにか地面には傾斜ができているようである。

 ……だめにさせてくれ

 意識が落ちてくれるのを待ちつつも、地面の傾斜は徐々にきつくなっているように感じる。

 ……だめ……だめ

 平坦な道をややうつむき加減ですすんでいた首ももちあがり、それに伴って視界ももちあがる。

 ……山

 目にうつった視界に伴い、今度は意識もすこしもち直して、体の目的を了承する。

 ……山か

 町中を走っていた頃までは遠巻きに視界にも入り、すでに見慣れた光景だったのでとくに意識はせず、日没もあり、ここ一、二時間は近づきすぎたことでかえって視界に入っていなかったのである。

 ……もしかして、あの山をずっと目指していたのか

 事実ここ数時間は視界に入っていなかったと思うので、別の山という可能性もなくはないが、稜線にはきちんと茨を頂いている。

 ……まじか

 月明かりしかない暗闇の中、得体のしれない獰猛な生物に出くわすこともありうるのに体は委細かまわず登っていく。

 ……すげえな

 脳裏かどこかわからない部位にひさしぶりの単語がうかんだ。

 ……ポテンシャル

 自分個人というよりヒトという生物の体は意識が高を括る以上によく動くものなのだとこの期におよんで思う。

 ……てっぺん目指してんでしょ?

 意識がひさしぶりに声帯をふるわせて感嘆している間も、体は軽快に登っていく。

 ……目指して登ってんでしょ?

 繁りきっている木々の梢や葉を軽快にかわしながらすすんでいく。

〈……全然疲れてないじゃん〉

 巨大な岩が前方をふさいでいる時にも上半身を巧みにつかってよじ登る。

〈……やるなぁ〉

 一度は疲労を感じた右手にも握力がもどってきているようである。

〈……これっててっぺんていうか頂上目指してんだよね?〉

 とくに障害のない山道でも、妙なリズムの地団駄を踏んで何かをかわすような動きをみせる。

〈……ねえ〉

 1・234・56・78・9というリズムである。

〈……ねえって、きいてます?〉

 この山の自然とダンスを踊るような動きにも感じられ、大木を背負ってターンをしたり、木々の枝葉とタッチを交わして頂上をめざす。

〈……そういうことなんでしょ、これ?〉

 飛び石づたいに軽快に川をこえてから、しゃがんで顔を水面につけ喉をうるおす。

〈……生き返るわー〉

 水面には月がうつり、一時的に明かりが二つになる。

〈……何の実? 腹へってるけどやめとかない?〉

 明かりが二つになったのは一時的であったものの、しばらくすすむとランプのように明るい木の実が大量に見え、1・234・56・78・9のリズムでもぎって食べる。

〈……うめえ〉

 登りはじめてすでに二時間以上たっただろうか。

〈……けっこう登ったんじゃない?〉

 実感としては二時間ほどだったが、今の状況において実感ほどあてにならないものもない気がする。

〈……帰りどうすんの?〉

 頂上と呼ぶことのできる場所まではもうまもなく到達するだろう。

〈……ねえ〉

 この実感二時間ほどの間でも数回あったことだが、大半の時間暗闇ということもあり、登山というよりさらなる闇の底に沈んでいく下山にちかい感覚にさいなまれる。

〈……帰りどうしよう〉

 すでに意識の方は頂上に到達したあとのことを考えはじめていて、今までの道のりを引き返すのだろうか、体はもつのだろうか、一応の食べ物も水もあるこの山で二、三日すごしてから下山するのか、あるいは捜索願いのようなものを待つのだろうか、日本からでるのは三ヵ月も先のことだろうといったことまで考えているうちに、体は山の頂上に着いたようである。

〈……シカか?〉

 深夜とも早朝ともつかない時間帯である。

〈……もしかしてオオカミ?〉

 ほかにもいくらか高い稜線があるのでここがこの山の正真正銘の頂上というわけではないのだろうが、この地点からだとこの山のむこうを見下ろすことができるので自分は頂上とした。

〈……ウマ?〉

 この頂上から一〇〇mほど下ったところに盆地のように平たい一角があり、数匹の四ツ足動物の姿が見える。

〈……いや、やっぱシカだ〉

 たまたまここにあそびに来たのか、ここで生活をしているのかはもちろんわからない。

〈……一、二〉

 全員で屯してあそんでいるわけではなく、各々が自分の体と向き合い自分の一挙手一投足を楽しんでいるようである。

〈……三〉

 あるいはこのような状況にある自分の目に、たまたまそのようにうつっただけなのかもしれない。

〈……四、五〉

 動物たちが無駄な草を食べたことによるものなのかもしれない、一帯はフィールドのように自然と整備されている。

〈……六〉

 この四方を山岳に囲まれた落ち窪んだ場所で飼育されているシカたちなのかもしれないという可能性を考慮しつつも、自分の体は〝フィールド〟に下りようとしているようである。

〈……七、八、九〉

 宿舎にいる時からずっと見えていたこの山の先にこのような光景が待ちうけていたことを、体のほうもまったく予測していなかったようで、足の指から手の指までが一体となって痙攣ぎみにふるえながら〝フィールド〟に辿りつく。

〈いや……八だ〉

 その振動にあおられたかのように、目からは涙がこぼれでてくる。

〈いや、やっぱ九〉

 悲しいなどという感情はまったくないのに、涙がとめどなくでて視界がぼやける。

〈九匹〉

 月光が視界の中で棚びいて、特定のどこかの場所にいるという意識がいっそう薄くなってくる。

〈……九匹〉

 悲しいという感情は依然ないものの、この状況自体に自分の意識もどこか懐かしい郷愁のようなものを感じる。

〈……自分を入れて九匹〉

 自分はここで生まれてここから巣立ってここに今戻ってきているのだという、日本以前の故郷のような感傷をこの状況におぼえつつ、八匹のシカとともに一緒にあそぶ。

〈……地球は丸い〉

 両手を地面について四ツ足になる。

〈……地球は丸い〉

 こういった体の動きを意識も了承して、今回のことの総括のようなことをはじめる。

〈……ボールも丸い〉

 わざわざ声帯をふるわせて教訓めいた口調になる。

〈地球を歩いたり走ったりすることは〉

 自分たちはコロンブスが唱えずとも地球が丸いことを本能的に知っていたのだと思う。

〈ボールを蹴ることなんだ〉

 若干言葉足らずなことを自覚しつつも、〝サッカー〟の根源にふれた気になる。

〈ボールを蹴ることは、地球とつながることなんだ!〉

 自分がサッカーをはじめたことの理由を地球全般の事柄にまで拡大して強引につなげたことで満足し、意識もろとも今の状況を楽しみはじめておそらく数分が経過する。

〈……ん〉

 このまましばらくこの〝フィールド〟に滞在すると思っていたのだが、体の方はすでにこの状況に飽きはじめていると見える。

〈……もうすこしいようよ〉

 両手をもちあげて四ツ足をやめ、1・234・56・78・9という体の左半分に負担が多い気のする奇妙なリズムを再開して、首を退屈げに左右に回してあからさまにあくびをして見せ、視界にはこの山のむこうの景観ばかりがうつるようになっている。

〈……来たのと反対方向だよ〉

 午後六時半のクラブチームの練習からはじまったことを考えると、一日分とは思えない夜がようやくあけはじめ、登山してきた方とは反対の景観が比較的くっきりとうつっている。

〈……なんだ?〉

 依然空にはいつくばっている月や星の光とは別種の光が一点二点三点とうつっている。

〈……町か〉

 火の色にちかい光の数々である。

〈……まじか〉

 その光景を見つめながら、体はこの〝フィールド〟一帯を最後に一周まわって下山をはじめたようである。

〈……きついって〉

 光のいくつかがにじみだして巨大な炎のように見えることがある。

〈……いやほんとに〉

 そしてふたたび分散するを数回視界の中でくりかえしながら、登山のときよりやや直線的に下山をする。

〈……はやいって〉

 道のり自体がそうなのか、あるいは直線的な自分の動きそのものがそう思わせているのか、下山の方が登山よりはやい道理を差し引いてもかなりはやく山を下りきった。

〈……またかよ〉

 弱音を吐きつづける意識をよそに、体はふたたび眼前に現れた道なき荒野を一目散に走る。

〈……ちょっと休もうって〉

 車のタイヤの跡すらない。

〈……あの光はまだずいぶん先にあるみたいだぞ〉

 現在は巨大な一つの炎のようにうつっている光が町の光であると、とくに根拠もなく体も意識も断定しているようである。

〈……となり町かな〉

 地平線の亀裂から太陽が姿を現したこともあり、その巨大な炎の光も前回より二回りほど小さくなっているように見える。

〈……ポルトガル〉

 スペイン人コンダクターが言っていた〝ポルトガル寄り〟という言葉が、ふと体内のどこかの部位にうかんだ。

〈……知らぬ間に国境をまたいできちゃったとか〉

 パスポートも財布も携帯していないことを気まずく感じはじめる。

〈……ありえる〉

 そのような気まずい思いは、原始的な村を想像していたことと、自分のこれまでの道のりにたいする感傷から来ていたが、実際の町の様子が見えはじめたあたりから、やはりここはスペインで自分は山を一つこえただけなのだという認識をもつ。

〈……どうだろ〉

 十キロ以上先だと思いこんでいた光は、むこうからもこちらへ歩み寄ってきているかのように予想以上に早く迫ってきたのである。

〈……まぁでもここもスペインなのかも〉

 足元にいつのまにか復活していた道路を絨緞のように感じてすすんでいると、人家がちらほら見えはじめ、その一軒一軒の間隔が段階的に狭まっていく。

〈……そんなにかわんないし〉

 自分はいつのまにか国境を越えてしまっているのではと思いはしたものの、当のポルトガルにかんしてほとんど何の知識もなかった。

〈……ほんとにとなり町なんだな、きっと〉

 強いて言えば、フランシスコ・ザビエルとかそういう国という教科書の歴史的なイメージのみである。

〈……同じチェーンのチキンの店もあるし〉

 自分が滞在していた町にもあった、肥えた鳥のマスコットが置いてある店のほかに似た形態のパン屋やピザ屋、教会まで見えたところで自分はたんにとなり町に来ただけなのだという自覚をもつ。

〈……まぁそうだよな〉

 まだ早朝ということもあるのか人っ子一人見かけない。

〈……昼寝もあんのに、スペイン人寝すぎだろ〉

 滞在していた田舎町といくつか異なる点はもちろんほかにもあったが、中でも決定的に異なっていたのは、この町の最果てには海が横たわっていたという地理的な側面である。

〈……まじか〉

 町中に人っ子一人見えなかったのはこのためかもしれない。

〈……すごい人〉

 海に隣接したきっと〝海浜〟を冠した名前のような広場には、数百人ほどの人々が集まっていた。

〈……何かのセレモニーか〉

 白人ばかりが集まっており、とりあえずここはヨーロッパなのだと、今はそれ以上あまり細かいことは考えないことにした。

〈……見送りか〉

 その光景を視覚がとらえたのち、聴覚が鼓笛の合奏の音をとらえた。

〈……夜通しだったのかも〉

 人ごみの中をかいくぐっていくと、海に十艘もの船がともづなで繋ぎ止めてあった。

〈……あの炎みたいな光は目の錯覚じゃなかったのかも〉

 すでに十艘ちかく解纜しているようで、今現在も次々に乗りこみ定員になり次第解纜しているようである。

〈……バイト〉

 少年・青年・壮年・中年にかぎらず男性は片っ端から乗船しており、日雇いの集合場所のように見えなくもなかったが、ここまでの壮行は大げさに思う。

〈……漁〉

 にしても、やや大げさなように思う。

〈……それとも戦争とか〉

 にしては、服装がラフすぎるように思う。

〈……でも船の中に武器や防具がもう積みこまれているのかもな〉

 自分が着ているようなスポーティーな姿ではないにせよ、皆動きやすそうな服装を身につけている。

〈……それかどこかの援軍のために船ごと移動しているだけか〉

 ズボンや袖の長さにも統一感はなく、すでに年季の入った物のように薄汚れていたりする。

〈……でも戦争なんて、いつの時代だよ〉

 どこか遠い海まで漁に行く船と考える方がやはり現実的な気がする。

〈……マグロとかかな〉

 クラブチームの監督の一件もあり、ヨーロッパ人の年齢を見きわめる力は自分にはないものの、あきらかに自分と同年代の若者もたくさん乗りこんでいるようである。

〈……ヨーロッパってマグロとか食うのかな〉

 日に焼けづらい色白の肌と、一山こえてきて薄汚れている服装と、年頃の男性という共通項だろう。

〈……あぁツナか〉

 あるいは乗るはずだった誰かが来なかったのかもしれない。

〈……いや、ツナって英語じゃない?〉

 自分も前に押し出され、ヨーロッパのマグロ事情をなんとなく考えているうちに、体は乗船していたのである。

〈……まじか〉

 ととりあえず悲観的な驚きの声をだしたものの、この町自体知らない町なので大きな差はないと、内心はそこまで慌てはしなかった。

〈……走らないでもよくなるし〉

 体がかってに海にとびこんで泳ぎはじめる光景が容易にうかんだが、いちいち言及しないことにする。

〈……どうせまたこの港に戻ってくんだろうし〉

 という淡々とした思いもあったし、

〈……もしかしたらこの大げさな見送りからしてアジアや日本にまで行くのかも〉

 という思いもあった。

〈……やっぱ武器も船の中に入ってんだ〉

 すでに海にうかんでいる八艘の船もおそらくそうだったのだろうが、この船もちょうど乗員が三十名になったところで解纜した。

〈……この槍なんかは漁にもつかえそうだな〉

 三十名のうち二名は黒人で、三名はあさ黒い人種の男性である。

〈……サンキュー〉

 自分も含めた白人二十五名の船中での生活のサポートはその有色人種の五名がすべて行うようで、小麦を主体とした食事の配膳や甲板の雑巾がけから、荷物移動等の力仕事、マストにのぼって帆布を掲げ直す高所の仕事まで行うが、下僕のように扱う有色人種五名の万が一の反抗をおそれてか、食事の調理まではさせないし、武具の管理や舵取りなどの重要な仕事は白人自身がとり行っている。

〈……オッケー〉

 初顔合わせの面々もあるようで、当初自分一人が孤立していたわけではなかったが、一人言葉が通じないということが徐々にあかるみにでて、船底にある倉庫のような場所の見張り役を命じられた。

〈……見張り役ってことでいいのかな〉

 見張り役以外の任務があるのかもしれないが、自分にはそれ以外の意味を受けとることができなかった。

〈……黙っておとなしくきいてたってだけ奇跡だよな〉

 ほくろが横ではなく縦に二つ額に並んでいた、この船の長のようなふるまいを見せていた白人の中年男性の身ぶりまじりの言葉を、体はじっとしてきいていたのである。

〈……リーダーの指示をちゃんとうけてから、ここに下りてきて、ちゃんとトイレ寄って〉

 トイレと思しき便器に排泄したことでようやく気づいたことだが、体は何も考えずに動いているようであって、道中ここまで排泄は我慢してきていたのである。

〈……何が入ってんだろ〉

 現在はこの船底の材木をくりぬいてできたような二畳ほどの手狭な倉庫の中で、大量の布袋を下にして静かに横になっている。

〈……やっぱ小麦かな〉

 相当な長旅を予定しているのか、あるいはどこかに運搬するための荷物なのか、乗員たちの食糧にしてはかなり量が多いように思う。

〈……小麦だな〉

 おそらくこういった食糧の管理にかかわる仕事も皮膚の色がちがう人間たちには任せられないということだろう。

〈……うまいのかわかんない〉

 この道中はじめて動くことをなくしたものの、手癖のように布袋の一つをほじくりあけて中の小麦をつまんだりしていた。

〈……これからどうなるんだろう〉

 という不安を時間の経過と共に感じつつ、体の方はここに至って睡眠を欲しているようだったので、体先導で眠りに落ちてしまったようである。

〈……六食〉

 何の合図もなくいきなりうつりはじめた視界には、おそらく黒人たちが配膳したのだろう、木製の椀に盛ってある六食分の食事が置いてあった。

〈……朝・昼・晩〉

 自分はまるまる二日間眠っていたのかと思い、自分の体の〝ポテンシャル〟にある意味での感心を抱きはじめた時には、すでに体はその六食分の食事を一気に平らげていた。

〈……すごいな、おまえ〉

 平らげると、ふたたび布袋の上に横になった。

〈……静かだな〉

 寝ていたことが一番の理由だろうが、この見張りをはじめて以来、ここまで下りてくる人の姿を一度も見ていない。

〈……みんなも甲板で食事してるのか〉

 上部の甲板を鳴らす足音も、風音とききちがうくらいしかきこえない。

〈……みんな実はもう船からおりてるとか〉

 声にはならなかったものの意識の中ではちょっとした笑いをうかべていたが、実際にありそうな予感を徐々に感じはじめて笑う余裕を完全に失い、様子を見に上に行ってみようと体に何度も提案し、ようやく十八度目で体が重い腰を上げて、何故か段鼻の木目を中指で突いてから上がった甲板の光景は、自分が想定していた光景をはるかに上回っていた。

〈……はい〉

 白人二十四名が船首が船尾の至る所に縄でくくられて拘束されていたのである。

〈……なんすか、これ〉

 それでも体の方はこのような甲板上の光景をあらかじめ予期していたかのように、驚いたり逃げたりあがいたりするような動きは一切とらず、自分から歩み寄るしぐさすら見せて、自首するような挙動をとったのである。

〈……おい〉

 現在舵を握っている黒人以外四名の有色人種が集まって耳慣れない言語で相談をはじめ、結局やさしい手つきできつく縄を縛って、口にテープ状のものを貼り、自分の身動きもきちんと固めることとなった。

〈……はい?〉

 色白ではあるものの、自分も有色人種だということを知ってのためらいだったのかもしれない。

〈……このままどうすんだよ〉

 船は速度を上げて力強く直進した。

〈……捕虜ってことか?〉

 実感で一時間以上直進していると、空と海の間の地平線を破ってこちらに直進してくる陸の姿が現れ、根負けしたかのようにこちらの船の方が蛇行をはじめて、結果その陸の西側に上陸した。

〈……この黒人たちの国か?〉

 この船に無線の類が備わっていたわけではないと思うが、魚の腐臭がひどい港にはこの船の帰港待っていたと見える黒人たちが屯していた。

〈……売る?〉

 捕虜となったようである白人はばらばらに金と銀のコインで買い取られて下船していき、最後に自分とほくろが横に二つ並んだ船長がとりのこされた。

〈……なんでばらばらに売る?〉

 同じく港側にとりのこされているような覇気のない痩せぎすの黒人が、金や銀ではない鈍色のコインを船員の黒人に四枚手わたして、いっぺんに自分と船長を引きとって台車に乗せて押し、あからさまなため息をつきながら町中をすすんでいく。

〈……どこに連れていくんだよ〉

 この道中最大級の不安にかられているものの、体の方は依然動きをやめてすでに何かを諦めているようですらある。

〈……蒸し暑い〉

 という皮膚の感覚はまだあった。

〈……ここはアフリカか?〉

 女性のようにも見えるこの痩せぎすの黒人は台車をゆっくりと押しながら、自分たち二人を見せ物のようにもしながら町中をすすんだ。

〈……アジアか?〉

 自分は見られるばかりでなく、街中の状況を見ている。

〈……ハングリーだな〉

 町並というより、裸足で黄ばんだサッカーボールを蹴り合う少年少女たちの光景一つを見て、そのような印象をまずうけた。

〈……黄色い〉

 少年少女たちの皮膚よりボールの色の方が鮮烈な輝きをはなっているものの、その白さには段階があるようで、ほかで見かけた靴をはいた大人たちの場合では真っ白いボールを使用していた。

〈……白い〉

 体のほうはほとんど動くことはなくなっていても、目だけがせわしく動いてなおも町中の様子をとらえつづけている。

〈……どこだここ?〉

 町内に建つ家々の大半は木造むきだしの平屋で、通気のためか扉がはずしてある家も数軒ある。

〈……常夏なのか?〉

 店舗を構える商店はすくないようで、ゴザのようなものを敷いただけのバザーのようなものや、大八車をひいて売り歩く露店商がたくさん行き交っている。

〈……それとも〉

 それでもこの性別ばかりでなく年齢も不詳に見える黒人が入ったのは、軒先に象形文字のようなデザインの看板を置いた、数少ない店舗の内の一軒だった。

「アーユーオッケエイ?」

 と店舗の中に入ってから、はじめて片言の英語をつかった。

〈……とりあえずスペインじゃなさそうだ〉

 物を売る商店というわけではないようで、こぢんまりとした平屋の建物の中にいる五、六名の人間たちは、こぞってこちらを一度黙視だけして、ふたたび内職のような手先の作業に戻った。

 ヘムヘムヘムヘムヘム

 ここまで自分と船長をつれてきた黒人は茶色いズボンのポケットからだした余りのコインを番頭のような恰幅のいい黒人にわたすや、恨み節のようなことを言われたようで、それにつっかかって口論をはじめ、自分の顔や船長の額のほくろをピンポイントで指さすなどしてなかなかおさまらないようすだった。

 ヘムヘムヘムヘムヘム

 裁縫のような作業をしていた一人が立ちあがり、自分と船長を台車から下ろして、室内の後方の地べたに並んで座らせた。

 ヘムヘムヘムヘムヘム

 自分たちと同じように縄を縛られ口を封じられている白人がすでに五人並んでいる。

 ヘムヘムヘムヘムヘム

 手足や顔にシミやほくろが目立つ白人が多い。

 ヘムヘムヘムヘムヘム

 どうやら分類のようなことがなされているようで、皮膚に瑕疵のない白人三名はビニールシートの上に座らせている。

 ヘムヘムヘムヘムヘム

 ここは何をつくる場所なのかというひらめきが、もうすぐうかびそうな予感がしている。

 ヘムヘムヘムヘムヘム

 建物の中は手狭な工場といった感じで、全体に白色に飢えた暗い色調で、壁と屋根はあるものの地面は外と地続きで靴や草履のような物を室内でも履いている者がいる。

 ヘムヘムヘムヘムヘム

 暑いのに右奥では何故か暖炉がついている。

 ヘムヘムヘムヘムヘム 

 四名の職人風の黒人たちは丸い形の何かに何かを縫いつけているようである。

 ヘムヘムヘムヘムヘム

 〝ヘム〟と読経のように全員で低くつぶやきながらうつむいて作業に没頭しているので、それが何なのか最初はわからなかったが、ふとした拍子にそれが何を製造する工程なのかが自分の意識の中で天啓をうけたようにつながってしまったのである。

〈だぁーーぬぁーー〉

 それでも体は絶叫する意識とは対照的に一切動こうとはしない。

〈だぁーーッ〉

 声帯だけは意識のコントロールするままに正常にふるえはじめて、テープの下からも絶叫がもれはじめたことが、かえって状況を悪化させたようである。

〈だッだッだッだッあーー〉

 台車から二人を下ろした職人がふたたび立ちあがり、暖炉の中の火であぶったナイフをもってこちらに寄ってくる。

〈……だ〉

 まだ直接的な危害を加えられる前の段階だったが、声帯の方もふるえなくなった。

 ヘムヘムヘムヘムヘム

 べつの黒人二名に縄はそのままにアディダスのウインドブレーカーから下着までとられたのち、熱したナイフで自分の体の表皮を手慣れた動きで淡々と削いでいった。

 ヘムヘムヘムヘムヘム

 果物や野菜にたいしてのような桂剥きは人間には難があるようで、肩から肘まで、肘から手首までというように関節で区切りながら剥いでは、一回一回ナイフを火であぶっていた。

 サスペンサスペン

 手首から指の先端までは関節をいくつかまたいでそのまま剥ぐ。

 ヘムヘムヘムヘムヘム

 小指、薬指、中指、食指、親指。

 ヘムヘンヘンヘンヘム

 すこし冷静になってみると、痛覚の方も体と分離しているようである。

 ヘムヘムヘムヘムヘム

 鼻柱を三方向に分割して一方向ずつ丁寧に剥いでいった鼻の皮膚の作業ですべてを終えたかと思いきや、今度は体格的にあきらかな男性があらわれた。

 ヘムヘムヘムヘムヘム

 おそらく十分にも満たないここまでの作業の中で、自分の意識の方もちゃんと勘づいてはいたのである。

 ヘムヘムヘムヘムヘム 

 たしかに革だけでサッカーボールにはならないのである。

 ヘムヘンヘンヘムヘム

 壁に立て掛けてあった鉈を火にあぶらずそのままもってきて、有無も言わせず、振りかぶって自分の頭部を切り落とした。

 ヘムヘンヘンヘムヘム

 自分の視点もその頭部と一緒に地面に落ちて眼前で砂埃がすこしだけ舞った。

 ヘムヘムヘムヘムヘム

 それでも自分の意識は胴体の方に居残りつづけている。

 ヘムヘムヘムヘムヘム

 自分の意識はもともとどこにあったのだろう。

 ヘムヘムヘムヘムヘム

 へそとか肛門とか乳首とか、あるいは皮膚のアカだったのかもしれない。

 ヘムヘムヘムヘムヘム

 このようなことを考えること自体が次第にばからしくなり、悟りの一つの境地のようにも最後の最後で感じることができるようになっていたが、胴体は一生懸命手足をばたつかせて自分の頭部をさがしつづけている。

(了)