第十一期受講者の『長い一日』・『カルチャーセンター』感想

窓目くんについてのささやかなメモ   

 私小説を書くと作中で自ら言挙げしている小説を書いた作家に、読者が質問している場面に遭遇したことがある。アレは本当にあったことなのか?と。

 その小説の中核をなすのは、作者の身辺雑記に基づいた話というより、2020年代の日本においては非日常であろう不穏な事件であった。であればこそ、読者は聞いてみたかったのだろう。そして作者は「事実ではありません」と時間的には即答していた。「時間的には」とあえて書くのは、実際に作者が言いよどんだりためらったりはまったくしていなかったし、気まずさも感じはしなかったが、しかし私の耳には、作者の声の調子や佇まいから、呼吸の溜め…というよりかは意識のかすかな溜め(「意識の溜め」という言葉を選択し書きつけてしまう誘惑を今私は抑えてしまうことができないでいる…)があるかのように響いたからである。

 その溜めを聞いたことで、ようやく、私はその小説がメタ私小説であることに気づいた。なんという鈍感さ!

 さて、少し遠回りしてようやく『長い一日』のある側面についてのみ、ここでは書こう。本作は、滝口という名の小説家が登場し、実際に『長い一日』を書いているのもその滝口であることにも意識的である。広義の私小説に属しているといえる。しかし、やはり現代に書かれる私小説は単なる私小説で終わりはしない。

 主要な登場人物の一人であり作家の友人である窓目くんは、滝口の書く小説の中で今まで何度も(というより、ほとんどの小説で)登場していることになっている。そしてそれを窓目くんは知っているし、他の作中人物(たとえば妻)も証言している。窓目くんは、自分がたとえば『茄子の輝き』という小説に登場したある人物は自分のことだと思っているが、その人物も結婚も離婚もしたことになっているが、窓目くんは結婚も離婚もしたことがないのである。ここのところを説明していると、どんどんと引用しなければならなくなってしまう。

 窓目くんにとっての事実と違うにもかかわらず、窓目くんは自分が小説に書かれていることを疑わないし、むしろ自分は友人の小説に書かれてあることは何でも知っているとまで思う。一方で、自分が小説に書かれていることを別に喜んでもいないし、不満に思っているわけでもない。

 などと説明的文章を書き連ねていて、そもそもこの文章は誰が読むでもない、たった一人が読むだけなのだし、その人物は、私などよりもはるかに『長い一日』を熟読しているであろう、さらに滝口悠生の小説も読みこんでいるであろうことに気づくと、こんなことをつらつらと説明する必要はないし、ましてや引用する必要などもないのだなとわずかに恥じ入ってしまう…。

 気を取り直すとして、私は、この窓目くんが実在するかどうかまったく気にならない。実在してもいいし、実在しなくてもいい。どちらでもいい。私としては、この窓目くんがある種の、というか、理想的な読者のメタファーとして機能しているといいたいのである。

 小説を読んでいても楽曲を聞いていても、私は「自分のことが書かれてある」「私のことを歌っているんじゃないかと思う」「なんでこんなに私のことがわかるのか」などといった感想を抱いたことがまったくない。そういう意味では、幸運にして不幸な読者だと思うのだが、そんなんではない読者もまた実在するわけである。

 そこに自分のことが書いてあると思う、実際の事実(こう書いておいて、実際の事実とは何か?と反問してしまう私がいる…)と違ってもあくまでもそこに自分の仮想的な事実を含めた真実が書かれてあると思う―窓目くんが滝口の書く小説に抱く感想-これはある意味で理想的な読者のことではないのか?

 今まで小説と現実とは対立軸として整理されることが多かったように思う。『宴のあと』しかり、『事故のてんまつ』しかり『石に泳ぐ魚』しかり…現実の人間関係を作者が利用したり搾取したりするという観点が含まれる。しかし、『長い一日』では小説と現実、あるいは作家と生活の既存の概念では把握しきれない、そこから逸脱するような何かが描かれているように思うのである。

これは感想ではない―『カルチャーセンター』について

 死者からの手紙は、その性格上、事後的にしか受け取ることができない。ここでは断固として小説『万華鏡』を死者の手紙として読み始めよう、、、、、、。ある種暴力的な読みである。にもかかわらず、まずはこの読みから始めることこそが、『万華鏡』を含みこんだ『カルチャーセンター』というある種法外な小説に釣りあう読みであるとも確信している。

 一般的に言う万華鏡は、実はその名からして事実に反する。それはまったくもって万の華を見せる鏡などではない。色付きのかけらと小さな鏡を使用して、少しずつ違うものの、たいして変わり映えのせぬ意匠を延々と見せつけるだけ。その証拠に、万華鏡を一時間も二時間も見続けられる人はほとんどいないし、毎日欠かさずのぞき込む人も滅多にいない。非常に退屈な、その退屈さの割に知っている人が非常に多い何とも不思議な玩具である。それは小説というものによく似ている。というよりも、万華鏡とは端的に小説の隠喩だ。それは細かな多くの欠片にも似た文字を、角度を変えたり重ねたり反復させたりしてある種の(ほとんどの場合退屈で無用な)幻影を作り出す。そしてしばしばすぐに飽きられ放置されてしまう。

 作中、語り手の私が「誰にでもなれる」「誰でも登場させることができる」と主張する。鴻池留依が「解離」を指摘していたが、実際にはどんなに多様に変身してみせてもすべては私に還元されてしまうということを意味している。どの登場人物の立場にたとうと、どんなに語りなおしてみせようとも、それは結局私でしかない。小説を書くという欲望はしかしすべてを私に帰着させてしまう欲望にすぎないのだとするなら、それになんの意味があるのだろう?というより、むしろそれはおぞましいことなのではないのか。どうやってすべてを私へと還元してしまうこの回路の外に出ていくことができるのだろう?

 自分が自分の分身に暴力をふるい、最後は自分の分身に自分の分身を殺させようとするといった後半の展開を衰弱とみなし、この衰弱を作者は救うことができなかったと評する藤田直哉に反論するなら、この衰弱は必然である。語っても騙っても、私に回帰してしまう。世界中を旅しようがホストに変身してみせようが、いってもいってもどこまでいっても私でしかない私…ni_kaが書き留めている作者のつぶやき…「旅をしても何も変わらない」…。

 この罠に気づきながらもやめることはできないのだとしたら、衰弱するよりほかなかろう。衰弱も罠もやめるとしたら、それはこの語る私/語りたい私を底の底に沈めてしまうよりほかない。小説はその論理に従って終焉し、ニシハラくんは「私」以外へと旅立っていった。

 ニシハラくんの自覚に呼応するが故に、松波太郎は、この『万華鏡』という他者の言葉をそっくり包み込む形で小説を構成せざるをえなかった。さらに『万華鏡』を改めて真の万華鏡として見せてくれる様々な書評とともに…作者の独語ではない複数の他者の言葉を忠実に取り入れることでようやく、全てが私へ還元されてしまう小説なるものの一つの隘路は回避されたのである。

 とはいえ、小説『カルチャーセンター』内における他者の言葉は、実はすべて関係諸氏の許可を得て作者が創造したものではないか?との疑いは(原理的には)完全に払しょくすることはできない。『万華鏡』という小説さえも(作中で朝倉宏景が述べているとおりだ…)。つまり、小説を書くことにおいて、結局は小説内のすべてが私に還元されてしまうのではないか?という『万華鏡』が投げかけた懐疑から逃げおおせることはできない。この課題を見事にすり抜けたかに見える(そしてすり抜けることでようやく『万華鏡』を世に問うことが可能になったと私には思える)『カルチャーセンター』にも当然のごとくつきまとってくる。

 しかしながら、原罪のごとく亡霊のごとく回帰してくるこの懐疑こそ、小説家たちにして倫理的な存在たれと命じるものなのである。そもそも小説家たちはたとえ虚構であっても読者が信じるに値するような、「所詮それはあなたの独善的妄想でしかない」と読者に思わせてしまうのではない、、、、、、、、、、、、何かを書かなければ十分に読まれるということはなかろう。さらに、とにかく読んでもらったからといって、読まれたあとに「全部嘘でした」と読者に告白すればなにもかも免責されるということもまた無い。小説家たちは読まれるために真に迫った嘘をつくのではない。言葉の力能が十全に発揮されたとき、真実として読まれたものはまさにそのとおり真実となってしまう。だからこそ小説家たちはあらかじめ何が真理かわからないというのに真理であることがふさわしいような夢をみなければならない。

 すなわち、小説家たちは意識的には暇つぶしだったり自己実現だったり一発逆転だったりを目指して書いているのかもしれないが、実際のところは、読まれた後につまり事後的にしか真理にはならないだろうが、にもかかわらず事後的には真理にならざるを得ない何かの方を向いて書いているといえる。それは特別な人々に課せられた課題ではないにせよ(全言語使用者に課せられた課題といえるにせよ)、小説という一見無用にして無縁なるものを生み出そうと悪戦苦闘する小説家なる人々がまさに中心として担ってしまっている問いである。そしてこの問いは、『カルチャーセンター』の中でも触れられるような、職業作家を目指しているわけでもなかろうになぜ文芸誌主催の賞に応募してしまうのか、というより、日記でもなくノンフィクションでもなくなぜ小説を書くのかという課題とも響きあうものだ。

 これは苦しみではありこそすれ、決して呪いなどではない。オブセッションと呼ぶこともできるだろう。このオブセッションこそが、登場人物の一人であるマツナミさん/マツナミくん/マツナミタロウ/マツナミタロー/マツくん/マツナミ/松波さん/松波太郎…が夢想するように、商品を経由しない小説―読者と作者という役割に分離したままでない読書空間―参加するものみなが書き参加するものみなが読みあう「カルチャーセンター(小説のユートピア)」という祝祭の場(そこでは空白という形ではあれ、死者さえも場所が用意されているのではないか?)へと小説家たち/読者たちをいざなう声々である。「ワッショイ、ワッショイ」「トッショイ、トッショイ」「ヘッショイ、ヘッショイ」………

(H.K 創作センター10期・11期)


『カルチャーセンター』と『長い一日』の感想

さいとう

なかなか書き出せないので、家にあったパックンチョをほおばり、一枚脱ぎ、髪をかきむしって助走をつけています。本の感想。これがとても困ります。私は小説を読んでいるさなか、読み終えた直後、1週間後、思い出になりつつある1カ月後、ふいに呼び起こされる数年後と、時間を経るにしたがって感想が変わっていくことを自覚しています。読書体験は一度だけなのに、読んでいる時は苦しくても思い出したら爽やかだった、なんて印象が逆転したこともあり、特段何もない一日を積み重ねているつもりでも、私の感受性は稼働していて、日常の何かとリンクした本の記憶が、新しい感情と一緒に引っ張り出される妙があるものだな、なんて感じます。

さて『カルチャーセンター』は、読了してちょうど1か月が経ち、ほどよく発酵しているころ。今の段階でこれは、しかけ絵本ならぬ、しかけ小説だと受け取っています。松波先生の著書は何冊か拝読しているのですが、私のなかで「予定調和を壊しに来ている群」に属すのです。読み手の「小説ってこんなかんじでしょ」という前提の一部を決壊しようとするものので、紙と文字と読み手の想像力で、どこまで立体的にみせられるか、タテヨコ360度から眺めて味わってもらえるか。たぶん先生にそういう意図はないかと思うのですが、私はそんな挑戦を勝手に受け取ったわけです。

小説家にはならなかった書き手であるニシハラくんの『万華鏡』は、講評を寄せている方々が一度通ってきた、または通る道の思考や表現方法が映し出されていると思われ、作中と実際の松波先生およびカルチャーセンターにいた講師と生徒の方々や講評する方々に影響を与えています。個々が持つ、小説に挑まざるを得ないスイッチを押してしまう強烈な作品なのでしょう。

残念ながら私は『万華鏡』にスイッチを押されたかはちょっと分からないのですが、本作品も予定調和を乱そう群に属しており、著者のテストを兼ねて読み手が飽きないよう編集された映像作品や舞台作品のような趣がありました。ニシハラくんのサービス精神が推進力となって、心地よく読めてしまった。

で、『カルチャーセンター』は『万華鏡』を講評し合う2Dカルチャーセンターの場として組まれているわけですが、同時にオーディエンスが取り囲む舞台の上で『万華鏡』をパクリと食べる(ゴクリと飲み込む)「剣呑み」をやってみせるショーにもなっている。他作品を取りこんで、観客の反応も作品の一部とする。さらに、読者にあなたはコレをどう読みますか? と突きつけてどこまでも作品の延長にしてくるような。かなり貪欲で度胸があることだと感じます。

少し話は脱線しますが、広告のキャッチコピーを書くにあたり新人は「何を書くか(What)」と「どう書くか(How)」の二つがあり、前者に重きを置けと言われます。でも手練れになると、「どう書くか」に重きを置いても、伝えるべき「何か」を浮かび上がらせることができる。本作が、しかけ小説という手段を通して手練れ式に「何か」を伝えているのだとすれば、一番手は、『万華鏡』を世に出すことではなく、私の感想のように可変する松波先生の現段階での”小説ワーク”の公表であり、プロでもアマでも小説の前で人は試行錯誤するしかないことをつまびらかにした壮大なルポなのだと思っています。

次に、『長い一日』の感想です。

実はAmazonで買おうとしたら2400円以上するので、ちょっとためらい、図書館で借りようとしたところ9人待ちでしたので、意を決してポチったという経緯があります。すみません。

厚そうな本なのでどんな内容なのかと待つこと半日、Amazon prime便でマンションのポストに届けられ、ずっしり重いA4サイズの薄型段ボールを部屋に持ち帰りました。開けてみると、それは『長い一日』ではなく、一緒にポチったウタマロ詰め替え用洗剤×4袋であったので、落胆と共にさらに半日待ちました。『長い一日』の帯にある「どこまでも伸びる一日。」との引用文は、まさに私が体験した今日ではないか、というのが本書の第一印象です。

数ページほど読み進めたところで確信したのは、昨今のいかに短く、鋭く、ユーザーを刺すかというデジタルコンテンツが繰り広げる可処分時間の奪い合いとは真逆の世界観であること。ページを開いている間は、野原で深呼吸するのびのびさを担保してくれるものでした。

そこには、青年期後半のふつうと感じさせる日常があり、喜怒哀楽が少しずつ全部まじった心の揺れが延々と続いています。登場人物たちが少しずつ他者を浸食して、波及し波及され、おだやかにつながっている世界。話者や時系列が少し不明瞭になるところも意識のリアルを表しているようです。

そして気付きます。そうか、私は感情が際立ったところに目を向けて記憶してしまうけれど、実際の9割はこんな感じの思考を回していて、文字化したらばこのテキスト量になるだろうということに。無視すればできるものをそうせず粘り強く追っていき、筆者は何を引き出したいのか。私がこの世界に長く浸ることで何が引き出されるのだろうか。

途中、小さな共感をいくつも拾いながら『長い一日』と共に時間を過ごしました。(元)夫のため息をあてつけ気味に感じたことも、高校時代の友人たちと増えた家族が集まる場で温度感と踏み込みをチューニングしたことも、ひと様の家につけてしまった痕跡を思い出して縮みたくなる時もあった、あった。そういえば高3の頃、ピアニッシモのメンソールを引き出しにしまっていた! と思い出し、自分事になっていく。

三分の二ほど読み進めれば、本作の夫と妻、そして窓目くんを筆頭とする登場人物に対して、ご長寿アニメの『サザエさん』『クレヨンしんちゃん』『忍たま乱太郎』に感じるような親しみを持っていると実感します。それは世界観にどっぷり染まったからこそキャラクターどうしの差異が大きく感じられるようになったからであり、細やかなドラマを理解できる土壌が整ったサインでもありました。つまり、少しの刺激で飛べる状況。だから「夫」のオオゼキ・ロスに爆笑し、「八朔さん」の川の場面に涙する。なるほど、『長い一日』を共に生きて引き出されたものは、低刺激で満足するレセプターとノスタルジーが出入りできる心の余白でしょうか。

読了したのが2日前なので、感想が生乾きで恐縮です。読了直前、私はスーパーマルエツにて2割引きだったスペアリブを買いました。骨がついていたので、これはスペアリブである、と堂々と皿に盛り付けた。もし、子どもたちが骨なしの豚肉を「わ~い、スペアリブだ!」と言おうものなら、私の場合は即修正を入れるだろうと予想し、そういうとこやぞ自分、「夫」や「妻」や「八朔さん」みたいにすべてを話さずとも良しとしていこうな、と戒めました。

今回受講できて、滝口先生にお会いできたとしたら、オオゼキで一番好きな調味料をお聞きしてしまいそうです。

以上


読書感想

 読書感想を書こうと思うのだが、脱線につぐ脱線が最もふさわしいと思うので、脱線しまくりたいと思います。2 冊の本は相互にもつれあい、絡みながら、かたることになります。あと、通常の批評と違い、即興で語られることもあるので、論旨が掴めない部分があるかもしれませんが、ご容赦ください。「⻑い一日」読んでいると、記憶が刺激される。色についての記憶、最初、この薄⻩色のような⻩金ともいえる色にそんなに惹きつけられなかったね。僕は日本海側で、生まれ育ったから、中国大陸から吹いてくる⻩砂、太陽が⻩色く濁る、あの憂鬱な季節を思い出してしまう。それが、この小説に出てくる⻩色はどうだろう、胸に迫ってくる。最初なぜだろうと考え、⻄武線、⻩色だね、この原風景こそ作者に無意識に影響を与えたのだと思ったのだけど、そうか、光か、朝日、淡い光、濃い影を落とす光、この作品には光が溢れている。故郷の光は赤が強い、夕陽で真っ赤に燃える光。大山での菜の花の⻩色。比喩でもひまわりが使われる、光は尊い。僕も⻩金の光をもっと身体に馴染ませれば、感じ方が、変わる、いや、変わらない部分、赤と、変える、⻩金を持とう。
 批評でよく出てくる、視点の切り替えってありますよね。あれって、よくわからないんですよ。おそらくこの本の批評として、視点が頻繁に切り替わるのは、小学生でも分かることですし、馬鹿にしているんじゃないですよ、私は小学生を尊敬しています。別に偉そうに語ることでもないと思うのですよ、それより、なぜ、作者が、そんな頻繁に他人、動物でもいいんですけど、なれるのか知りたい。他人ですよ、タニン、そう簡単になれる訳ない、だって、自分が感じるように他人になりかわって感じることができますか?見たり、聴いたり、触ったりできますか?出来ないでしょう。そういうことを小学生てき自分は知りたいんですよ。
 で、一応考えてはみたのですが、仮説ですよ、霊鳥類の高度な動物は脳が高度に発達した結果、ミラーニューロンという細胞が生まれた。この細胞は、他人が活動しているのを見るだけで、自分が活動していなくても活性化する、相手が旨いもの食べていると、自分もそのように感じる、滝口悠生、松波太郎、ニシハラ君はもの凄く高度にミラーニューロンが働いていると、僕は勝手に推測しているわけです。だって、⻑い一日、カルチャーセンター、万華鏡、他者の感じることを自分のように本当に感じますよね、誰かになりかわることはできない、自分のことは自分で救う、喜びも痛みを一緒に受けとめる、窓目君の美容師草壁さんとの妄想的な恋。妄想と呼べないのは、彼女のように感じるからだ。さっきまで俺の髪の毛を切っていたので、見ずとも今日の俺の髪の毛のことはもう知っているのか。冴えているニシハラ君は他人の心を簡単に読み取り、蟻になり、殺人を犯してしまった彼女になる、というよりも、自分のように感じてしまうのだろうか、松波太郎は、ニシハラ君とで、松波太郎になる。なにを言っているのか、よくわからないが。
 ⻑い一日は、音も印象的である。特に印象に残るのは、おじいさんが仕事で叩く金づちの音、色んな音域があり、強弱もあり、叩く材質でも、音は変わる、僕の妄想では、おじいさんは凄くいい音を叩いたと思うのです、ただらんぼうに叩くのではなく、ただただ耳障りでしょう、他者に届けようと、おそらく熟練の機械工がそうであるように、道具の重さに従い叩いたのでしょう、だから心地良くなり、愛着が出る、カルチャーセンターの語り手が耳に支障をきたすのは、音楽家の宿命でもあるのですが、大音量、ベースであれば、下手なドラムス、本当に彼らは、力任せに叩きますから、そのせいももしかしたらあるかもしれません。おじいちゃんみたいなドラマーであれば、大音量でもうるさく感じないので、他人に配慮のない音って、なんであんなに不快なのでしょう。カルチャーセンターの万華鏡、僕には届いた、ニシハラ君の声。この世は地獄だという。だが、最後の海の変化する色合いの美しさ、はじまして、と彼女と交わす喜び、この世は美しいと言っている、どんなに苦しい人生でもこの一瞬があるから、僕らは何とか生き延びてきたのですね。

(匿名)


滝口悠生『長い一日』と

植本一子・滝口悠生 往復書簡「ひとりになること 花をおくるよ」を読んで

石川ナヲ

 今回の創作講座のことは5/31に知り、もしかしたら先着順だったら間に合ったかもしれないが、今回は募集方法を変えたとのことで、感想文を書くという試みは大変興味深かった。

 既に購入していて読んでいた『カルチャーセンター』については既に書いた。

 それでも感想と呼べる文章になっているのかは、かなり怪しいので読んで判断していただくしかない。そして『長い一日』に関しては購入しておらず、したがって未読であった。

 本が届くまでの間、手元にあった植本一子・滝口悠生 往復書簡「ひとりになること 花をおくるよ」を読んでいた。これは往復書簡なのだけど中には『長い一日』に関して書かれていたり、往復書簡であるものの日記的な側面もあるように読めるし、小説についての滝口さんの考察も書かれていて、創作講座に向けて個人的に大変有難い内容だった。

 もしも創作講座の抽選(選考)に外れてしまっても、この本を読めたこと、出会えたこと(『長い一日』含めて)は、本当に良かったと思う。

『長い一日』からの引用ではなくて往復書簡からで恐縮だが、

「小説とは、事前に書きたいと思っていたことを書けるものではなく、事前に書こうとしていなかったことが書けるもの、というのがこれまで小説を書いてきたなかで手元にある唯一の経験則らしきものであり、小説観みたいなものです。しかしこの経験則は小説を書くうえでほとんどなんの助けにもならないんですよね。しいて言えば、書きたいことをすらすら書けてしまっているときは小説としてうまくいっていない可能性があるぞ、と注意深くなることぐらいでしょうか」(27-28ページ)、

 ここを読んだ時は、ああそうかもしれない、そうだなあと思った。

 引用しだすときりがないのでこれだけにするが、他にも「生活考察vol.07」という雑誌で以下の内容を読んだ。

 その内容は、松波さんと滝口さん、それから青木淳悟さん、太田靖久さん、鴻池留衣さんが5人で小説について語っているという超ゴージャスな対談? 鼎談? なんと呼ぶのかわからないが、座談会のようなものがあって、そこでも滝口さんが、青木淳悟さんに、

 自分の話ではあるけれど、それをそのまま書くのではなく、自分がいた「場所」を書こうという意識でいること で、あまり「私」みたいなことにかかずり合わないで書ける、みたいな感じなのかな。

 と話しておられた。(「生活考察vol.07」p.62)

 他にも

 書き手が自意識にきちんと向き合って、そこに甘えを残さず断ち切った上でものを書けるか。それって最初のハードルですけど、一番の難関は結局そこだと思う。(「生活考察vol.07」p.60)

 と、結局引用してしまったが、私のとっての滝口さんの印象はまずこれらの発言だったので、この方の書く小説はどういうのだろうと思って、『長い一日』を読み始めた。

 この小説は長いけれども読み終えようと思えば期日までに読んで感想も書けると思ったが、締め切りギリギリに提出するのがあまり好みではないのと(公募はともかくとして、今回のような場合)、締め切りにあわせてまずは読んでしまうというのも(読書会とかだとそうなってしまうこともあるが)、なんだかもったいない気がして、今34ページのしわ犬のところまで読んでこれを書いている。

 しわ犬についても、どんな犬なんだろうと、そして有難いことに犬種を書いてくださっているので検索して、ふだんは猫派の自分が、滝口さんが書かれた犬を撫でる描写で、わたしもこのしわ犬を飼えるものなら飼ってみたい、いや、まずは撫でてみたいと切実におもうくらい魅力的に書いてあった(衝動的にペットを飼うのはよくないし、我が家は犬猫禁止の厳しいマンションなので飼えないのだが)。

 それから不染鉄という風変わりな名前の日本画家も、創作の中だと創作の人物みたいにみえるが、これもネットで検索したら出てくるので実在だとわかり、しかも東京ステーションギャラリーでやっていたと知り、観たかったなあと思ったりした。

 それも「青山七恵さんに会った時に、なんとなく滝口さんぽい感じがしました、と言われたので観にいく」というあたりもすごくツボった。

 不染鉄という人の絵の説明、絵に描かれた文章のところもものすごく面白くて笑ってしまった。

 滝口さんの文章(小説、往復書簡)を読んでいると肩のコリがとれるような、いい感じの、うまくいえないのですが、力の抜き方みたいなのが伝わってきた。

 往復書簡の中で、植本一子さんが、窓目くんが実在するという事実にまず歓喜、と書いておられた。(51と57ページ) 私は先に往復書簡を読んだので、窓目くんはさっき「しわ犬」の箇所に出てきたので、おー、この人だと感激した。

 実は二十年くらいカルチャーセンターで私は家族や自分のことを書いてきた。ほぼ自分のことで、仕事や、持病のある子供を育てながら感じたことなどを書いてきた。自分としてはいま読み返すと、当時の心境や仕事のことなどはよく書けてるなと思うが、反面、小説として、どうなのかというと、さっきの自意識の問題がうまく処理できていない箇所があり、それはたぶん恋愛的要素からくる自分への甘えなのかもしれないと、ここに来て思う。

 気づくと最近読んで感銘を受けた作家さんの小説に恋愛的要素はほぼ皆無だった。

 しいていえば、妻が出て行ったり、あるいは日々妻と暮らしたりというのはあっても恋愛とはかなり違う感じだった。そこに別の女性が出てきて三角関係という泥沼話でもない。

 私はカルチャーセンターで、クラスメートから、石川さんのテーマは「片思い」だねといわれて、そうかも、と思ってきたが「片思い」は小説への片思いでもあったのかなと思う。

 片思いにケリをつけて(片思いが悪いわけではないが、私が描いてきた恋愛的視点は、周りがよく見えてない状況につながりやすいのではと思う。もしかしたら小説に不向きかもしれない。

 いまは「場所」について書くのがテーマになっている。

 三月に「文章などのよろず相談」というイベントで太田靖久さんに昔書いた小説の冒頭を読んでいただき、「シーン(場面)」を書くことの重要さについてアドバイスをいただいた。ただそのときはまだ、場面を書くことを自分の最重要課題としていて、今までのテーマを踏襲していて書いていた。

 「恋愛」という心の動きには、個人的にはいろいろ思うところがあるので、どうしてもテーマに出そうになるので、無理やり止めるのも変かもしれないが、でも恋愛じゃなくてもいいんだよなと思うようにもなった。

 滝口さんの『長い一日』を読みながら、選考の結果を待ちたいと思う。

 長くなりましたがどうか宜しくお願いいたします。

松波太郎『カルチャーセンター』感想(これは感想だろうか?)

 先日、国立市谷保にある書店、「書肆 海と夕焼」で開かれた「書評講座(青木淳悟『ファザーコンプレックス』を読んで書く)」を受講した身としては、感想ではなく、書評を書いて臨みたいところであるが、わたしが書いた書評は、評論ではなく紹介に近いもので、そうなると感想とはまた離れたものになるかもしれないので、ここでは、書評も意識しつつも、やはり感想を述べることにする。

 わたしは、この作品に出てくる当事者らしき人々と同時期ではないものの、ここで語られている、ある宗教団体の会長と偶然おなじ名字をもつ講師の授業を現在オンラインで受けている者である。といって、その現実が小説を読むのに妨げになったり、助けになったりするかというと、案外そうでもなく、素直に読むことができた。なぜならここに出てくる「万華鏡」を書いた人のことをわたしはまったく知らないからである。

 実は「書肆 海と夕焼」で町屋良平さんの『ほんのこども』の読書会に参加していたこともあり、『カルチャーセンター』を読んだのはこの読書会の時期に重なっている。なぜ『ほんのこども』をここで取り上げたかというと、『ほんのこども』も、あべくんという死んでしまった人が書いたらしい「小説」を下敷きに書かれた小説という体裁を取っているところがあるからだ。

 このふたつの作品を読んでわたしが書きたいと思ったのは、亡くなってはいないが、かつては書いていたのに、もう大人向けの小説を書くのをやめてしまった、ある人物の書いた小説についてのことだ。しかし大きく違うのは彼は児童文学を書いているらしいことと、そのために小学校の先生に転職したが、いまものすごく多忙で、児童文学を書く余裕がないのではないかと勝手に推測している。彼は死んではないはずで、生きているひとの、過去の小説についてわたしが書いてもいいのだろうか。

 わたしは彼と出会ったとき彼がいつか作家になると思っていたが、いまのところ彼は書いていないと思う。そしておこがましいけど彼の代わりに小説を書いていると思うことがある。持病のある子供が生まれて、そのことは二の次になってしまったが。

 『カルチャーセンター』はそんなわたしの話とは違って、今はデビューして本も出しているらしい「マツナミくん」が、亡くなってしまったニシハラくん、カルチャーセンターでともに学んだ同輩というべきか会社なら同僚とよぶべきか学校ならクラスメートと呼ぶべきか、その彼(ニシハラくん)の書いた小説を載せている。ただそれがほんとうに彼の書いた小説なのか、ネットで調べたりしなければ、この小説内小説、もしくはニシハラくん自体創作の産物だとかんがえることが自然かもしれない。実際わたしもそう思いながら読んでもいた。ところが最後のほうでニシハラくんがある本に寄稿していたことが書かれている。わたしはネットでその本の名前や編者、彼の名前を使って検索をしていた。

 検索機能。わたしが大学生の頃、つまりは三十年近く前にはなかったことで、スマホもなければ、大学生はほぼ誰も携帯電話も持っておらず、パソコンは友人のひとりがかろうじてウィンドウズ3.1を買って持っていたが、そのころインターネットなんてまだなくて、卒業の年だったか1995年まさにウィンドウズ95の年なのかもしれないが、大学でインターネットができるというので友人と行ったのかひとりで行ったのかもさだかではないが、使った覚えがある。卒論でトマス・ピンチョンをとりあげたこともあり、Thomas Pynchonと打ったものの当たり前だが英語の文章ばかりで、あいにく英語ができないのに英文科に行ったものだから(理由はいろいろあるが割愛)、へえ、と思って、それで終わった記憶がある。とにかくいまのネットとはかなりかけ離れていて必要な日本語の情報なんてほとんどなかったように思う。

 しかし今はなんでもかんでも載っていて載っていないものはないのではないかと思うくらい、載っていて、正直言うと真偽がわからないものも多数あるだろうが、おおむねよほど怪しそうだったり素人がつくったサイトでない限り、手がかりにしてしまっている。クレジットカードを使って買い物をするサイトならよくよく見ないと偽サイトだったということはあるだろうが、文章が載っているサイト、出来事、物事や書籍の紹介サイトの真偽を疑うことは正直あまりないだろう。

 そこでわたしはニシハラくんがどうも本当に実在していたことを知る。そうなるとこの作品「万華鏡」もどうも事実なのではないかという気がしてくるのである。(p.261)

 事実を小説に書いてもそれはフィクションになるという説は全面的に賛成なので、ネットで調べたからどうのこうのというつもりもないのだけど、この小説の後ろにはいろんな作家たちが文章を寄せていて、それもほんとうにそうだというので(それはツイッターで知った)、ますますこの小説はほんとうに不思議な小説だという思いが強くなる。

 あまりにも現在の小説は「フィクションとしての強度」ばかり尊重されていないかと思うことがある。とくにわたしはカルチャーセンターで自分のことを題材にして書いてきた。自分や友人、子供のこと、などなど。転職もかなり多くしてきたので、その都度そこからヒントを得て書いたり、慣れない子育て、子供の障害のことなど、それにまつわる周囲とのこと、わたしは小説に書くことでどうにか現実を生きてきたとおもう。

 二十年経って、カルチャーセンターでわたしの小説を読んできた人たち、先生を含めて(二名の先生が主にかかわっている)、最近思うのはもう「わたし」から離れて「物語」をつくって、「作品」にしましょうということだ。わたしが書いてきた二十年間の小説は自分では私小説だとも呼ばれてもいいとおもって書いていたが、あまりにもそこには「わたし」があるから、なんか自己主張がはげしいとか内面を読まされてつらいとか、いっそおもしろいとかいろんな感想にさらされてきた。

 単純に新人賞採れるかというとまあちょっと違うかなというところで、一次予選も通らずにここまで来た、カルチャーセンターに通う前のほうが一次にとおっていたが単に若かったから可能性に賭けてもらっただけかもしれない。

 今年五十になるというのにいまだにその年齢に中身が追い付いておらず、今年二十歳になる子供のほうがよほど落ち着いていて聡明だと感じることが多い。

 現実と小説の狭間で足掻きながら生きてきた二十年だったが、この小説はそれをいとも軽やかにといっていいのか死者の原稿をあいだにはさんで軽やかという形容詞をつけるのはためらわれるふしもあるのだが、それでも等価に存在しているようにわたしには思える。昔は死ぬのがこわくて、いまはそのことを忘れていて、もうそろそろ死期が近いんじゃないか、本を出すこと以外はやりたいことをすべてやってしまったような気がするし、みんなをハラハラさせながら生きてきた気もする。大学の時みんなあんなに熱心に小説を書いていたと思うのにみんなどうしてしまったのだろう。小説を書くのをやめてしまったひとたちがわたしの周囲にはたくさんいる。もしかしたら書いているかもしれない。でもわからない。二十年も経った気がしない。

 わたしは自分が結婚したり子供を生んだりする未来を子供の頃まったく描いていなかった。まさか三十前に結婚して、三十になる歳で子供を産むとは思っていなかった(二十九で出産)。二十歳の子供という矛盾した言葉と存在。ずっと彼のことを書こうとして書けなかったが、彼ではなく彼女として、もし娘としてと思って書いた掌編が思わぬ反響を得た。(結果はわからないがカルチャーセンターの受講生が今までの中で一番いいと言った)

 一方でうれしい反面、その小説はかなり自分の手を離れたと思い、褒められてもそれは自分が褒められたわけではなく、なにか偶然の奇跡の産物のようにも思えている。

 なんだか感想じゃなくて自分の話がメインになってしまったが、『カルチャーセンター』は末尾に作家やいろんな人たちが寄稿するように、誰しもが何かを書きたくなる小説なのだとわたしは思う。ただ正直言うと、「万華鏡」の良さが自分はどのくらいわかっているのかわからない。かれはどうやら自死だということも書いてある。それはおそらくほんとうのことなのだろう。だれもが生まれたいとおもって生まれてきたわけではない、なのになぜ産んだのかということばを最近ウェブである作家が書いているのを読んで、最初、もしわたしが息子からそれを言われたらどう思うかを想像してしまい、かなりショックを受けた。しかしその言葉に息子が共感しかないと言っていた。そこから自分もいろんなことを考えている。また別の作家が、生まれたいとおもって生まれてきたわけじゃないのだからせめて幸せに生きるのが意趣返しなのだと書いていた。わたしの書きたいことはもしかしたらすでにこのふたりに書かれているのかもしれないと思ったりもする。しかしそれでもわたしはわたしで書いていきたいと思う。この講座を受講することでまた別の観点から書けると信じている。

 参考資料 新潮2016年5月号掲載「「何者か」への報告[レビュアー]太田靖久

https://www.bookbang.jp/review/article/513794

      ランバダvol.2  わかしょ文庫 著 p・59より以下引用文

「生まれたくて生まれてきた人間なんていないこの世の中で、幸せになることだけが運命への唯一の意趣返しだ。どうか幸せになってほしい、なんて身勝手なことを思ってしまう。

2022/5/31初稿

2022/6/3修正


   滝口悠生『長い一日』感想

                                   井上智公

 言葉にならない気持ちの動きを、既存の言葉へ簡単に落とし込むことなく、丹念に探り当て続けようとするその粘り強い手つきがとても誠実で、登場人物たちの気持ちに対して嘘がない小説であると感じました。

 読みやすく、けっして奇をてらうような文体でもないのに、読後にはずっしりとした重みが残るというのは、前者に関してはスタートがエッセイであるということが、後者に関してはこの分量の多さも関係していると思うのですが、やはりそれだけではないような気もします。たぶん重い文体で書いていたら、この重さは作中で消化されて読後には残らなかったと思うので、作者がどこまでこの読みやすさと重さを意識して書いたのかということが、とても気になりました。

 そして中盤以降になると、人称も文体も題材も自由度をグッと増してきて、著者の生活に密着した台所やスーパーの話題になってくると、さらに生き生きと筆が乗ってくるのが感じられました。それは僕自身も台所やスーパーに居る頻度が高い生活を送っているため、共感ポイントが多いというのもあると思いますが、特に大仰なことが起こらなくとも発見の多い文章が次々と飛び出してくる感じで、「これは自分が書くべき題材であったかもしれないはずのに、こんなふうには書けなかった!」と、勝手に悔しくなってみたりもしました。

 たとえばこの中盤以降の自由度の高い文体で、最初から書き出していたらどうなっていたのだろう、というようなことも考えてみたくなります。こういう自由な演奏が、冒頭から許されるのかどうか。あるいはそれは頭からいきなりアドリブのギターソロを弾きはじめるようなもので、作品への入口を閉ざしてしまうことになってしまうのだろうか。読み手の呼吸を踏まえた上で、どのタイミングで崩したり引き締めたりするかを見極める感覚こそが、文章のセンスというものなのだろうか――などなど、長篇だからこその文体の変化というものが生き物のように感じられて、とても興味深い、小説の可能性を広げるような作品であると感じました。

   松波太郎『カルチャーセンター』感想

 僕は十年ほど前から、文芸誌の賞に小説を投稿したりしなかったりしているのですが、以前は一次選考や二次選考を通過したものが、近年はさっぱり通らなくなってきていました。その原因がいったいなんなのか、自分のセンスが劣化したのか時代とズレているのか、はみ出しすぎているのか逆に保守的すぎるのか、一次や二次程度でもあれは下読みの方との相性によるラッキーパンチだったのかと、あれこれちょうど思い悩んでいるところで、本作に出会いました。

 そしてこの小説内で交わされる、小説に対する多様な価値観の交錯に、ある種のショックを受けました。それらはまさに、自分の書いた小説に対して向けられている言葉であるように感じました。もちろんそれは僕だけでなく、多くの投稿者がそう感じているとも思います。この作品を読んだことにより、自分が小説について悩んできたことがここに代弁されていると感じつつも、そうやって問題が明確になったことにより、より小説がわからなくなったような気もしました。

 僕は作中作であるニシハラくんの『万華鏡』を読んで、これは新人文学賞を受賞するか、最低でも最終候補には残すべき作品であると感じました。少なくとも、近年の新人文学賞受賞作の大半よりは、読み手を惹きつける不思議な力のある作品であると思いました。

 なのにこれが一次選考も通らないというのは、いったいどういうことなのか? 面白いだけじゃ駄目なのか? ひょっとして面白さにも、新人賞的に「アリ」な面白さと「ナシ」な面白さというのがあるのか? わかりやすいほうがいいのか、わかりにくいほうがいいのか? ちょうどいいはみだし具合とかちょうどいい尖りかたみたいな、バリバリのパンクバンドがたまに作るチャート対応のバラードのような、そういう塩梅のようなものが求められているのか? だとしたらそこにはきっと受験勉強的な傾向と対策が必要で、そんな文学賞を取りにいくことに意味はあるのか? でも文学賞を取らないと、そもそもデビューできそうにないし――などなど、自分が面白いと思う小説を書くということと文学賞を取るということの一致点がそもそもあるのかということについて、改めて考えるようになりました。

 様々な方が寄せた巻末の批評文の中にも、実際に文学賞の一次選考を担当している人からの、自分だったらやはりこの作品は通さないというリアルな意見などもあって、「んー、そうなのかー」と、自分のことのように頭を抱えてしまったり。もし自分がこの作品で落とされたら、次は何を書けばいいかわからなくなるかもしれないな、と思ったりもしました。

 僕自身、二十代のころは少年漫画編集部にいて、そこでは新人の作品に修正の指示を出したり、賞の選考も日常業務としてやっていたので、落とす側の気持ちもわかってはいるはずなのですが、少年漫画と純文学ではやはり全然違うし、でも求められるものは結局似たようなところもあるのだろうかと、溯って考えてみたり。

 とにもかくにも、自分の書いた小説を他人に読んで意見を言ってもらうという体験が、いまの自分に不足しているのは間違いないのだろうなと、この作品を読んで改めて痛感しました。小説というものに対して、これほど多角的に、かつ創作者の葛藤に寄り添って切実に迫った作品は、ほかになかったように思います。そしてこの『カルチャーセンター』のような世界に、自分も飛び込んでみたいと強く思いました。