何かを書いている瞬間は、一人でパソコンのモニタに向き合っているので勘違いしがちだが、小説を書くということは孤独な経験ではないし、自分の内面や内側の世界にのみ関り続けることではない。むしろそれは、他者とコミュニケートし、概念や感情を言語化し共有していく、社会的な営みであることを、決して忘れるべきではない。わざわざ出版社が、印刷費や宣伝費をかけて、あなたの文章を大量にコピーして本を作るということの根拠のひとつに、その「公共性」がある。
だから、自分の作品が、これまでの文学の歴史の中でどのような位置になるのか、書店に並んでいる本と比較してどのような「売り」があるのか、現代の言説空間の中でそれがどのように機能することを期待するのかを、逆算して考えなければならない。自分の経験、感情、過去、それらを創作の出発点にすることは当然ありえることだが、しかし、他者に向けて「表現」されるときには、自身の書いた物、自分自身を、自分自身の視点から見るのではなく、第三者の視点からメタ認知をする必要がある。
これが難しい。そう簡単には出来ない。主観と客観のズレは、理想と現実のズレでもあり、このギャップは人を苛立たせ、狂わせる。しかし、そこになんとかして向き合い、理想に追いつかない現実の自分自身を認識することからしか、理想に近づこうとする努力が発生しようはずがない。
カルチャーセンターなどの創作講座の利点は、互いに目の前に、互いの作品を読んだ読者がいるということである。「他者」の視点を、そこで教えてもらえる。自己の主観的視点だけに閉じた状態から、外に連れ出してもらえるのだ。互いの深い内面に触れるような作品を読み合った仲間同士が、深いレベルで、魂の交流をすることもできる。だから、仲間同士を、たまたまそこで出会った人たち同士を、大事にしてほしい。そのような経験を出来る場と時間は、人生において、それほど多くはない。ひょっとすると、プロになることそのものよりも重要なことは、その経験であったりするかもしれないのだから。
(藤田直哉)