革命

           1.

「おまえ、これカスだよ」

「ううん、あたし人間だよ」宝田は声を張り上げ、猫木の眼の奥をしばりつけるように見つめた。「ユータ、あたしカスじゃないよ、人間なんだよ」

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「ちげえよ」箸で、中身の肉が抜けている衣だけのトンカツを指す。「今おまえがくれたこのトンカツ、肉が入ってなくて、カスだけ、衣だけだっつう意味。びっくりしたあ、いきなりなに? おまえどうしたの? なに興奮してんだって」

「あ、そういうことね、ごめんごめん、あ、ほんとだ、肉だけこっちの皿に落ちてる」と言って、宝田は黒光りした箸で自分の皿の上にある肉をはさんで、猫木の皿に移す。大声がつい出たのを恥ずかしがってか、肉を移した後もずっとしゃべりつづける。しまいには独り言みたいになった。「簡単にとれちゃうのね、落ちやすいのね、うん、この衣。肉にパン粉まぶすのちゃんとやってないからなのかなぁ、衣がぶかぶかなんだね、肉もちっちゃいんだね、これねこれ」

 この“メシ処さねよし宇都宮店”の一番の人気メニューはトンカツ定食である。“ボリューム満点! 一番人気!”のキャプションがメニューに入っている。サクッというよりタクッという音の表現が適当な硬質の衣に、中は肉汁が若干甘い豚肉。“鹿児島産黒豚!”なのだそうだ。二人ともたのんで、猫木は六分で食べ終えた。宝田の方も計七切れあるトンカツのうち、三切れを猫木にあげて、ようやく片づく。皿の上には沼のようなウスターソースだけが残っている。

 カットグラスに入ったお冷を、猫木はつまらなそうに飲んでいる。本当に飲んでいるのか、量はさっきからあまり減っていない。カーブした襟足を手で梳かしている。何かしゃべりかけた方がいいのかなと宝田は、掘りごたつ風のテーブルの中で宙に浮かしていた足を、着地させる。

「トンカツおいしかったね」

「おいしいとか、まずいとかさ、そういううわついたレベルの話じゃないとおもうんだな、このトンカツは」とかえして黒竹の天井を見る。「このさねよしは」

「うん、そうだよね」

 宝田の相槌に対する相槌は打たずに猫木は天井を見上げたまま、首を左右に動かして、一度止めて、今度は肩の上下をはじめる。

「凝ってるの? ユータ、肩揉もうか?」

 宝田がそう言うと肩の上下を止めて、店の出入口の方に視線を送る。レジの前には会計をしている学生っぽい男たちがたまっていた。会計をめぐって何か一つ笑いが起きたようだ。声はここまで聴こえてこないが、片足を上げて大きな動作をとったり、顔を圧縮させたり、一人がデコを軽く叩かれたり。猫木は真顔で視線を送りつづける。

 かれらがレジの前から去った。

「家帰ってから、して」

 宝田が一歩前に出る。猫木が一歩後ろに下がる。宝田は猫木より二歩前にいることになる。「一九〇〇円になります」との店員の甲高い声に合わせて、宝田は跳ねているイルカの型押しが入ったグレーの財布を、バッグから取り出し、紙幣を二枚抜き取って化粧合板の台上に置く。背後から猫木が、宝田の肩の上に手をそっと置いた。

「ごっつぉさんです」

 店名の入ったドアマットを踏んで外に出ると、暗くなっている。店の外に出た後になって土色のプランターラックが置かれた張り出し窓の隙間から、店内をのぞき見る。白壁に吸い込まれている白い縁の掛時計は、五時五十二分。気温も入店時より下がっているようにおもう。気温の方は今のところ数値化できないが、体感として猫木はどくろマークが胸元に入った緑色のブルゾンの袖を、手の甲まで伸ばしてみせた。

「やっぱもう冬だな、冷えるもんだな」

「日光、紅葉キレイだろうなぁ。終わっちゃったかなぁ。また行きたいね日光」

 並んで歩く宝田をすがめる。「もみじはとっくに終わってるだろ」

 宝田はヒールの高いパンプスを履いているので、一六七センチの猫木とほぼ同じ高さにある。アスファルトをそのヒールで打ち鳴らしながらゆるやかなスロープを下がって、“メシ処さねよし宇都宮店”の専用駐車場へ出る。まだこれからなのだろう。飯時という時間でもないので、駐車場には四台しか停まっておらず、フロンティア精神をそそるように、白線のない背筋の悪い雑草の茂ったところまで、青いアスファルトはのほうずと広がっている。

 紺色のダイハツのミラに着く相当前から猫木は、膝元だけ白くなったジーパンのポケットからキーを取り出している。鉄の環に指を入れながら、得意そうに回している。とくに回し方が滑らかでないのに猫木が得意そうに映るのは、口笛を吹いているからだとおもわれる。

 運転席のドアを開ける。車内に入り、助手席まで飛び込む。指を伸ばして、手動ロックを解く。

 この猫木の動作は1セットになっている。

「ありがと」と言って、ドアを開ける。助手席に腰を落とす。去年父親に買ってもらった革製の円筒バッグを膝元に置いて、シートベルトを締める。

 この宝田の動作も1セットになっている。

 猫木は頭を少し屈めてキーを差し込もうとする。

 差し込んで手首だけの動きで右にひねり、エンジンをかける。車は武者震いをして勇み立ち、暖房の温風が鼻息のように出て、カーオーディオからサスペンダーフロムヒダマウンテンズが雄叫びを上げる。ここに至って猫木の口笛に、音楽がともなう。マウンテンズはやっぱテープにかぎるなあ、とこの車のオーディオがテープ専用であることを猫木はかれなりに割り切っている。宝田は名前も嫌いだし、サビのよくわからない音楽もただうるさいだけで、さらにオルタナ系などと分類されているからこのサスペンダーフロムヒダマウンテンズが本格的に苦手なのだが、しいて言って「高校野球を見て思う二、三」のカップリング曲になっている「皇帝」だけはまずまず聴ける。熱い「高校野球を見て思う二、三」の曲調とはちがい、「皇帝」は“皇帝には聴かれないように♪”という歌詞に表れているよう、ひそひそ話のような静かな曲である。しかし今流れているのは「皇帝」ではない。「地下街――新年編」という轟音である。肩を揺らせてリズムを取り出した猫木ではあったがしかし、すぐに揺れが止まった。

 音楽が止まったのだ。温風が止まったのだ。エンジンが止まったのだ。

 だがこの車のエンジンのかかりが悪いのは、今にはじまったことじゃない。

 九回かけなおしたところで、ようやくアレと猫木はわかりやすい反応を示した。

「どうしたの?」前方の二車線の県道四十六号を見はるかしていた宝田は、隣の猫木の不穏なようすに気づいて、横を向く。返答がないので、上体を乗り出し、シートベルトの間から乳房を突出させる。「つかないの?」

 十回目に挑む。十一回目に挑む。十二回目に挑む。

 どんどんキーを回す手振りが荒くなる。猫木の眼は見開き、まばたきの数も激減している。完全にかかることはないながらも五回目あたりまでは、ゲップのような音を立てて車はかかる気配を見せていたが、それもこの十二回目ではまったくなくなった。

 奇策として、かける間合をずらしたり、窓の外を見ながらノー・ルックでキーを回してみたり、一度左に力をためておいて一気にキーを右へ回してみたりするが、エンジンはかからない。十六回目「はい?」十七回目「はい?」十八回目「はい?」十九回目「はい?」

 この「はい?」が、宝田はいやだった。巻き上げ口調の「はい?」を言うときの猫木が、末期的な状態に近づきつつあることを、宝田は知っている。

「かかんねえじゃねえか」ぷぅ~~ぷぅ~

 毛羽立った黒いシートが覆ってあるハンドルを、猫木は左拳で叩いた。叩いたのがその中心だったために、クラクションが閑散とした駐車場一帯に鳴りひびく。鳴らされたことに一番腹を立てているのも、猫木のようである。

「うるせえ、ふざけんな、かかんねえじゃねえか」

 ことばの内容が荒っぽいながらも声は小さい。猫木の怒りの語調にはいつも一種の静けさがあり、「はい?」もその一つである。そもそもこの静けさが、宝田は一番いやなのである。

 間隔をとってから、もう一度宝田はきいてみる。ご都合のよいときにかえしていただければ、という羽毛のような声音。「つかないの?」

 猫木はまたハンドルを叩いたが、今度は拳にスナップをかけてその中心を狡猾に外している。クラクションは鳴らない。

 暮れ残りもなくなり、フロントガラスからのぞける低い夜空には、こんなにも多くの星が見えはじめている。それらが星座という打算性のない無垢な星の屯として映っているのは、宝田の眼に、である。

 猫木は叩いた手をそのままハンドルにつけて、首を丸め、うなだれる。自分の鎖骨のあたりに向けてつぶやく。

「ボンネットか」

 ようやく頭を上げなおしたときの猫木の表情は、眼を細めた顰め面だった。「ボンネットしかないか」細めたことで予感のあった眼を、完全に閉じる。

 そして一連の動作の結びのように、閉じた眼を大きく開きなおす。

 鞘から刀を抜き取るようシートベルトを外す。「ボンネットを開けるしかない」と言い残してドアを勢いよく押し開け、猫木は車外へ出て行く。