革命

           ⒈

「おまえ、これカスだよ」

「ううん、あたし人間だよ」宝田は声を張り上げ、猫木の眼の奥をしばりつけるように見つめた。「ユータ、あたしカスじゃないよ、人間なんだよ」

           ・

「ちげえよ」箸で、中身の肉が抜けている衣だけのトンカツを指す。「今おまえがくれたこのトンカツ、肉が入ってなくて、カスだけ、衣だけだっつう意味。びっくりしたあ、いきなりなに? おまえどうしたの? なに興奮してんだって」

「あ、そういうことね、ごめんごめん、あ、ほんとだ、肉だけこっちの皿に落ちてる」と言って、宝田は黒光りした箸で自分の皿の上にある肉をはさんで、猫木の皿に移す。大声がつい出たのを恥ずかしがってか、肉を移した後もずっとしゃべりつづける。しまいには独り言みたいになった。「簡単にとれちゃうのね、落ちやすいのね、うん、この衣。肉にパン粉まぶすのちゃんとやってないからなのかなぁ、衣がぶかぶかなんだね、肉もちっちゃいんだね、これねこれ」

 この“メシ処さねよし宇都宮店”の一番の人気メニューはトンカツ定食である。“ボリューム満点! 一番人気!“のキャプションがメニューに入っている。サクッというよりタクッという音の表現が適当な硬質の衣に、中は肉汁が若干甘い豚肉。”鹿児島産黒豚!“なのだそうだ。二人ともたのんで、猫木は六分で食べ終えた。宝田の方も計七切れあるトンカツのうち、三切れを猫木にあげて、ようやく片づく。皿の上には沼のようなウスターソースだけが残っている。

 カットグラスに入ったお冷を、猫木はつまらなそうに飲んでいる。本当に飲んでいるのか、量はさっきからあまり減っていない。カーブした襟足を手で梳かしている。何かしゃべりかけた方がいいのかなと宝田は、掘りごたつ風のテーブルの中で宙に浮かしていた足を、着地させる。

「トンカツおいしかったね」

「おいしいとか、まずいとかさ、そういううわついたレベルの話じゃないとおもうんだな、このトンカツは」とかえして黒竹の天井を見る。「このさねよしは」

「うん、そうだよね」

 宝田の相槌に対する相槌は打たずに猫木は天井を見上げたまま、首を左右に動かして、一度止めて、今度は肩の上下をはじめる。

「凝ってるの? ユータ、肩揉もうか?」

 宝田がそう言うと肩の上下を止めて、店の出入口の方に視線を送る。レジの前には会計をしている学生っぽい男たちがたまっていた。会計をめぐって何か一つ笑いが起きたようだ。声はここまで聴こえてこないが、片足を上げて大きな動作をとったり、顔を圧縮させたり、一人がデコを軽く叩かれたり。猫木は真顔で視線を送りつづける。

 かれらがレジの前から去った。

「家帰ってから、して」

 宝田が一歩前に出る。猫木が一歩後ろに下がる。宝田は猫木より二歩前にいることになる。「一九〇〇円になります」との店員の甲高い声に合わせて、宝田は跳ねているイルカの型押しが入ったグレーの財布を、バッグから取り出し、紙幣を二枚抜き取って化粧合板の台上に置く。背後から猫木が、宝田の肩の上に手をそっと置いた。

「ごっつぉさんです」

 店名の入ったドアマットを踏んで外に出ると、暗くなっている。店の外に出た後になって土色のプランターラックが置かれた張り出し窓の隙間から、店内をのぞき見る。白壁に吸い込まれている白い縁の掛時計は、五時五十二分。気温も入店時より下がっているようにおもう。気温の方は今のところ数値化できないが、体感として猫木はどくろマークが胸元に入った緑色のブルゾンの袖を、手の甲まで伸ばしてみせた。

「やっぱもう冬だな、冷えるもんだな」

「日光、紅葉キレイだろうなぁ。終わっちゃったかなぁ。また行きたいね日光」

 並んで歩く宝田をすがめる。「もみじはとっくに終わってるだろ」

 宝田はヒールの高いパンプスを履いているので、一六七センチの猫木とほぼ同じ高さにある。アスファルトをそのヒールで打ち鳴らしながらゆるやかなスロープを下がって、“メシ処さねよし宇都宮店”の専用駐車場へ出る。まだこれからなのだろう。飯時という時間でもないので、駐車場には四台しか停まっておらず、フロンティア精神をそそるように、白線のない背筋の悪い雑草の茂ったところまで、青いアスファルトはのほうずと広がっている。

 紺色のダイハツのミラに着く相当前から猫木は、膝元だけ白くなったジーパンのポケットからキーを取り出している。鉄の環に指を入れながら、得意そうに回している。とくに回し方が滑らかでないのに猫木が得意そうに映るのは、口笛を吹いているからだとおもわれる。

 運転席のドアを開ける。車内に入り、助手席まで飛び込む。指を伸ばして、手動ロックを解く。

 この猫木の動作は1セットになっている。

「ありがと」と言って、ドアを開ける。助手席に腰を落とす。去年父親に買ってもらった革製の円筒バッグを膝元に置いて、シートベルトを締める。

 この宝田の動作も1セットになっている。

 猫木は頭を少し屈めてキーを差し込もうとする。

 差し込んで手首だけの動きで右にひねり、エンジンをかける。車は武者震いをして勇み立ち、暖房の温風が鼻息のように出て、カーオーディオからサスペンダーフロムヒダマウンテンズが雄叫びを上げる。ここに至って猫木の口笛に、音楽がともなう。マウンテンズはやっぱテープにかぎるなあ、とこの車のオーディオがテープ専用であることを猫木はかれなりに割り切っている。宝田は名前も嫌いだし、サビのよくわからない音楽もただうるさいだけで、さらにオルタナ系などと分類されているからこのサスペンダーフロムヒダマウンテンズが本格的に苦手なのだが、しいて言って「高校野球を見て思う二、三」のカップリング曲になっている「皇帝」だけはまずまず聴ける。熱い「高校野球を見て思う二、三」の曲調とはちがい、「皇帝」は“皇帝には聴かれないように♪”という歌詞に表れているよう、ひそひそ話のような静かな曲である。しかし今流れているのは「皇帝」ではない。「地下街――新年編」という轟音である。肩を揺らせてリズムを取り出した猫木ではあったがしかし、すぐに揺れが止まった。

 音楽が止まったのだ。温風が止まったのだ。エンジンが止まったのだ。

 だがこの車のエンジンのかかりが悪いのは、今にはじまったことじゃない。

 九回かけなおしたところで、ようやくアレと猫木はわかりやすい反応を示した。

「どうしたの?」前方の二車線の県道四十六号を見はるかしていた宝田は、隣の猫木の不穏なようすに気づいて、横を向く。返答がないので、上体を乗り出し、シートベルトの間から乳房を突出させる。「つかないの?」

 十回目に挑む。十一回目に挑む。十二回目に挑む。

 どんどんキーを回す手振りが荒くなる。猫木の眼は見開き、まばたきの数も激減している。完全にかかることはないながらも五回目あたりまでは、ゲップのような音を立てて車はかかる気配を見せていたが、それもこの十二回目ではまったくなくなった。

 奇策として、かける間合をずらしたり、窓の外を見ながらノー・ルックでキーを回してみたり、一度左に力をためておいて一気にキーを右へ回してみたりするが、エンジンはかからない。十六回目「はい?」十七回目「はい?」十八回目「はい?」十九回目「はい?」

 この「はい?」が、宝田はいやだった。巻き上げ口調の「はい?」を言うときの猫木が、末期的な状態に近づきつつあることを、宝田は知っている。

「かかんねえじゃねえか」ぷぅ~~ぷぅ~

 毛羽立った黒いシートが覆ってあるハンドルを、猫木は左拳で叩いた。叩いたのがその中心だったために、クラクションが閑散とした駐車場一帯に鳴りひびく。鳴らされたことに一番腹を立てているのも、猫木のようである。

「うるせえ、ふざけんな、かかんねえじゃねえか」

 ことばの内容が荒っぽいながらも声は小さい。猫木の怒りの語調にはいつも一種の静けさがあり、「はい?」もその一つである。そもそもこの静けさが、宝田は一番いやなのである。

 間隔をとってから、もう一度宝田はきいてみる。ご都合のよいときにかえしていただければ、という羽毛のような声音。「つかないの?」

 猫木はまたハンドルを叩いたが、今度は拳にスナップをかけてその中心を狡猾に外している。クラクションは鳴らない。

 暮れ残りもなくなり、フロントガラスからのぞける低い夜空には、こんなにも多くの星が見えはじめている。それらが星座という打算性のない無垢な星の屯として映っているのは、宝田の眼に、である。

 猫木は叩いた手をそのままハンドルにつけて、首を丸め、うなだれる。自分の鎖骨のあたりに向けてつぶやく。

「ボンネットか」

 ようやく頭を上げなおしたときの猫木の表情は、眼を細めた顰め面だった。「ボンネットしかないか」細めたことで予感のあった眼を、完全に閉じる。

 そして一連の動作の結びのように、閉じた眼を大きく開きなおす。

 鞘から刀を抜き取るようシートベルトを外す。「ボンネットを開けるしかない」と言い残してドアを勢いよく押し開け、猫木は車外へ出て行く。

【国道一六九号 吉野郡下北山村××トンネル付近 午前二時十一分】

 運転席の窓枠に強打した。右腕が折れ、右側(そく)頭(とう)部から血が噴き出している。噴き出した血の支流が顳顬(こめかみ)のあたりから顔面にも流れこんで、顔の右半分は赤く染まっていた。右眼は上に盛り上がった頬肉に埋もれていたために、その血とは関係なく視界がなくなっている。一方、左半分には外傷は見当らず、血も飛んでいない。顔の左半分だけがいつもの猫木豊であることがかえって、生々しい。かれは事故を起こした。計三回ぶつけた。

 峠道である。

 一㎞以上つづいたトンネル内で、速度は九〇㌔まで上がっていた。半円状のトンネル出口を出ると、下り坂になっていた(トンネル内もじつは下り坂だったが、猫木豊は気づかなかった。ずっと暗い峠道で、久しぶりにトンネルの優しい橙の光を浴びて、気風よくアクセルペダルを踏みつづけていた)。

 そしてすぐに右への急カーブ、左への急カーブとつづき、悲鳴のようにブレーキ音を周囲にひびかせながら最後はハンドルが切れずそのまま、道路右手、崩落を防ぐための鉄網のかかった岩壁へ衝突した。衝突された岩壁の側からも、砂礫が飛び散った。

 車は前部が潰れ、アコーディオンのように縮んでコンパクトになり、今度は伸びるよう岩から跳ねかえされた。相手が岩であったためにめり込まなかった。

 ハンドルがガムのように急に膨らむ。これがエアバッグである。全身タイツのマネキンが衝突して出るサンプル映像を見たことは猫木豊にもあったが、実物ははじめてだった。衝突とほぼ同時に出たが、猫木豊の頭はちがうところに打ちつけられた。窓枠である。

 この時点ではまだ猫木豊に意識はあった。「いたいいたい、助けてくれえ、やめてくれえ」しかし意識があったことが逆に、彼の恐怖を増幅させることとなる。

 衝突でブレーキがきかなくなった。ハンドルも回らなくなった。エアバッグから変な臭いがする。ずっとしまい込まれていたからか、伯母さんの家の押入れの中のような臭いがする。ギアも動かなくなった。手でいくら動かそうとしても、今まで猫木豊が一度も入れたことのない“2”に入ったまま動かなくなっている。

 岩に跳ねかえされた車は、リベンジを期して、もう一度切り立つ岩壁へ体当たりしに向かう。

「やめてくれぇえ」

 とフロントガラスに向かって大きく叫んだ猫木豊は、やめるわけがないことを二度目の絶叫でさとり、自分の背後のシートを抱きかかえる。クッションにするためだが、シートに手が回せたのは左手だけである。この時点で彼の右腕はすでに折れていた。

 二回目の衝突。

 車はまたもや前斜めで衝突したために、猫木豊はエアバッグでも後ろのシートでもなく、一回目の衝突同様、右側のグレーの窓枠に右側頭部を強打する。弾力性が若干あったはずの窓枠だが、鉄パイプのように感じられた。蘇芳色の血が頭からしぶく。二回目の今回は、自分の中の何かがへこんだ音が、自分の耳にもきちんと聴こえた。

 二回目の衝突で、ルームライトが点いて消え、点いて消えを三秒おきごとにくりかえしはじめる。その明滅に合わせるかのよう猫木豊の意識も、同時に明滅をはじめた。真っ赤に盛り上がった頬肉に、右眼はすでに埋もれている。外傷のない左眼は、意識に合わせて閉じたり開いたりしている。眼を開くと、たまたまルームライトの消えているときと重なることもある。

 ギアは“2”から今度は“R”に入った。人間の力では完全に動かなくなっているようだが、岩壁と衝突するとギアは柔軟に動くようだ。

 “R”つまり「バック」の甲高い音が、車内にひびく。猫木豊の耳にその音は入っておらず、眼の開閉をくりかえしながら何か叫んでいる。「ボンネット! ボンネット!」の連呼。その声が「バック」の音をくっているから、聴こえていないのかもしれない。左手は、しぶいた血が付着したハンドルの上にそっと添えられている。

 四一㌔の「バック」で車は、道の反対側に向かう。

 岩壁(山)の反対側には、幽霊然闇の中に白く浮かんだガードレールがある。その先にはスギ・ヒノキが密植された山が見え、その山とガードレールの間の約五〇〇m下には、細い川が横たわっているらしい。

 後ろ向きの体勢のまま、路肩の広い二車線の道路を横断。車はガードレールに衝突した。

 左・後輪がガードレールに乗り上げる。次に左・前輪が乗り上げる。これで、助手席の窓からならば、その約五〇〇m下の谷底がしっかりと見下ろせることになった。

 つぎに、右側の前後輪も乗り上げてガードレールを越えようとする。しかし下り坂のガードレールの稜線に、車は針路をとられる。左側の前後輪だけ乗り上げたまま、下り坂に沿って、滑り降りていく。ケーブルのように、一定のスピードで滑り降りていく。

 道が平たくなれば車はガードレールの上を滑るのをやめて、止まる。だいたい七〇m近く滑り降りたことになる。

「ボンネットを早く開けなくちゃ! 早く! 早く!」

 明滅していたルームライトが消え、「バック」の音も消えている。車内はエアバッグの臭いとは比にならない煙の臭いでいっぱいになっている。眼が開けられないし、開けても煙で何も見えない。

 しかし、こういった状況になりながらも猫木豊本人には、この車から一刻も早く脱出しなくては、という焦りはまったく起きなかった。唯一あった「ボンネットを早く開けなくちゃ」という焦りに突き動かされたかたちで、結果的に車の外へ這い出ることになる。

 ドアを左手で殴るように開けて車外に這い出ると、人類の進化史のように、一度四つんばいになって中腰になり、腰を伸ばしてまっすぐ立つ。力の入らない右足をジーンズの裾のようにひきずる。目的地への視点はすでに定まっている。

 猫木豊はボンネットの前に着いた。衝突で圧縮しもはや面影のないボンネット。その間から細々と出ている白い煙が、暗闇の隙間を縫って昇天している。

「ボンネット! ボンネット!」さらにまた十回ほど連呼しながら、立ち止まらず車前部の右と左の往復をくりかえす。ここ、と決めた位置にようやく立ち止まる。「開いてよ、ボンネット!」

 体を擦りつける。「ボンネットお」熱いがかまわない。左手指をどこかしらの鉄製の溝にめり込ませ、開けようとする。

「生きてるぞぉー」

 深夜交通量の少ない道路でありながら、段階的にたまった後続車の人たちが、ようやく走り寄ってくる。

 ある程度走り寄ったところで「石油クサッ!」と互いに顔を見合わせる。大丈夫じゃない、とはやすやすかえせない語気の「ダイジョブカアッ」を叫んで、それを翻して自分たちへの鼓舞にし、走り寄る。七人の人がいた。内二人は女性で、内三人は釣りの帽子(魚のマスコットや釣具店の店名が入っている。朝釣り目的で、熊野灘に向かっている最中なのだろう)をかぶっている。でも猫木豊の眼に映っているのは依然、ボンネットだけである。

「石油漏れとるわこれ、危ないで、爆発するでこれ」

「あのゴツい岩に二回や、最後バックでも一回やろ、そりゃま」

「おい、えらいにおいしてまっさ、こりゃあきまへあきまへん」

「はよ離れさせな」

「やから、離れろって! そっから離れろって言うとるやんかッ! 聞いとんかッ! おいッ! にいやん!」

 猫木豊を引き離そうとしながら、猫木豊も根性でボンネットから離れない。一人で引き離そうとし、加担して二人になり、四人になった。至近距離で、右半分の頬肉が眉根までもち上がっている顔が、眼に入る。「わやッ」「ひどッ」といったん猫木豊から遠ざかる。が、またすぐに近づいて引っ張る。

 猫木豊はボンネットを撫でながら、泣いていた。左眼から涙が流れている。

「ボンネットお、ボンネットお」右の頬肉の隙間からも不透明な液体が、流れ出ている。

「アカン、こいつ頭やられておかしなっとんやわ」

 七人のうちの五人の男すべてが結集して、加減なしの力で猫木豊をようやくボンネットから引き離す。親から引き離されたように猫木豊は、さらに「ボンネットお、ボンネットお」声量を上げて泣き、拳をつくった左手でその一人の男の腹を叩きつづける。

 叩いているそのうちに、力は弱まり、拳はほどけていった。左眼をゆっくりと閉じる。つぎ猫木豊が眼を開けたのは、陽の光をカーテンがふくんでいる病室の中だった。

            ⒉

「中どうなってるぅ?」

 宝田が窓を手動で下げてきいたが、猫木からの返事はない。出ていった勢いはよかったが、すぐに失速。両手を体の前で編みながら、車前部の左右の角を往復するのみで、まだボンネットを開けていない。

 ま、ボンネットの中、エンジンとかは、もうもらったんでしょ? あの緑か青かの本とかにも載ってんであとで自分で見ておいてちょーだい、と教習所の金髪の男教官も説明してくれなかった。

 猫木はボンネットを今まで一度も開けたことがないのだ。

 ユータあなたはなにがしたいの? 往復をずっとくりかえしている猫木を車内助手席から注視する宝田。窓をおそるおそるさらに下へとさげて、もう一度小さな声を出す。

「知ってるとおもうけど」さらに声を小さくした。「ボンネットって真ん中に引っかかりみたいなのがあって、それ外して開けるんだよね」

「知ってる」

 と猫木は無表情でかえす。左右の角を往復するのをやめる。「かどんとこを点検してただけ」何を言っているのか自分でもよくわかっていない。すばやく真ん中に移動し立ち止まる。ほんとだ開きそうだ。

 ボンネットをいざ上にあげる前に一度、手首をまわす。同時に首の骨を鳴らそうと試みる。手の甲まで伸ばしていたブルゾンの袖を腕まで強引にまくり上げ、両手を掲げる。

 しかし腕は掲げられたのみで、内部におろされることは結局、なかった。

 はじめて開けたボンネットの下には、未来都市が広がっていた。少なくとも猫木の眼にはそう映った。幾本ものパイプが都市を占拠し、緑は壊滅させられ鉛色一色で、工業用水の蒸気が生暖かく、人の姿は一見なくしかし役所のような建築物はたくさんある。どこでどのような手続きをとればエンジンが修復するのか、現代人の猫木にはわからず、二十一世紀段階での人類が見てはならない未来の景観だった。

 一度掲げた腕を丁寧に畳んで肩口にもどす。ブルゾンの袖をゆっくり下ろして、手首のところでさもカフスボタンがあったかのようなしぐさでしっかり整える。そして可及的音を立てず、息もあまり吐かずにボンネットをゆっくりと閉める。運転席に帰る。

「どうだった?」

「わからん」「故障したの?」

「ちょっとその中に」と猫木は助手席の前にあるカセットテープ等が交じり合っている収納スペースを指でさして、「車の保険証が下の方にあるとおもうから取って」とまたキーを回しつづけながら、抑揚のない声で促す。

 機嫌をそこねたくはないのだろう、宝田は「これかなそれかな」贅言を吐きつつ、あわただしく地図や書類や佐野厄除け大師の交通安全祈願のお守りを、よりわける。

「ハローオーライだかんな」

「ハローオーライね」と言いながら、宝田がスウィットマンの保険証をガソリンの領収書に紛れさせようとしているところを猫木は見て、

「何やってんだって、おまえカスか」保険証を手に取る。「ハローオーライはスウィットマンのフリーダイヤルのことだって。いい加減はッたおすぞ、おまえ、お遊びじゃねえんだぞ、ちゃんとやれよ」と静かにたしなめる。

 だから宝田はその静けさがいやなのだ。

 萎縮し、何もことばをかえさずにカーキ色のニットのネックを顔元まで伸ばす。小さなピアスがついた耳たぶまで隠れる。つぶらな瞳をいっそうつぶらにする。でもそれを可愛いとおもう余裕は、猫木にはなかった。

( 続きは全集三郎にてお楽しみください )