徐福と熊野

「徐福さん」

 このように呼ぶ人が熊野の、とくに老年層に多い。私も熊野の人間だが、若年層なのでこうは呼んでいない。

「徐福」

 今から二二〇〇年前の中国・秦の時代に生きた徐福じょふくは、時の君主・始皇帝の命を受けて、不老不死の仙薬を得に、東方の海へ解纜した。なぜか数千人の童男童女をともなった、数百艘におよぶ大所帯であったという。

 兵馬俑坑などの発見によりその信憑性が近年実証された司馬遷の『史記』によれば、徐福の渡航は紀元前二二一年であり、その到着先で王になったという記載がある(「徐福得平原广泽,止王不来(徐福は平原広沢を手にいれ、その地でとどまって王となり、ふたたび帰ってはきませんでした)」)。『史記』にその到着先が「日本」という明記はないものの[1]、日本には南は鹿児島・薩摩半島から北は青森・津軽半島まで国内計二〇ヶ所以上の徐福渡来伝承地がある。

『史記』の中には計五ヶ所の徐福記載があり、そのどれもが「徐福は不老不死の仙薬がこの世にあるとはおもっておらず、ただ始皇帝をだまし巨費をせしめて海外に亡命したのだ」という筆致で終始一貫されている[2]

 徐福は、秦の全国統一によって併呑された斉の国の方士(卜筮ぼくぜい・占験・星相・医術などの仙術を会得している人)であった。その徐福は即位後の始皇帝に拝謁し、皇帝に教養が備わっていないことをしおに、不老不死の仙薬を手に入れてまいります、と渡航の準備・人員・費用を始皇帝に要求し、結局斉の海岸から出航して帰ってこず、着いた先で王となった。というのが、現在でも日中間またいでの大方の共通認識となっている。

 ちなみに、一九八二年、「徐福村」が現在の江蘇省贛楡かんゆ県において発見されている。全国的な地名調査の一環の中での“発見”と言うより厳密にはそれは「徐福村」の“判明”であるが、その二年後の一九八四年四月十八日付『光明日報』には、調査を実施した羅其湘と汪承恭の論文「秦代に日本に東渡した徐福の故郷の発見とその考証」が発表された。日本では、わずか朝日新聞一社がその翌日〈一九八四年四月一九日朝刊二二面〉に「徐福村」を報道した。次のとおりである。

 では徐福は始皇帝を騙して出航後、どのような航路をたどったのであろうか。

 九州北部には徐福伝承地が多い。その理由として掲げているのが、「弥生文化をもたらした徐福」像であるが[3]、紀元前三世紀の段階で弥生文化――イネの原生種、環濠集落や金属器、耳垢の乾いた弥生人たちが、この時代にまだ本土に出現していなかったなどということはありえない。近年の調査により、縄文時代末期には、すでに弥生時代が始まっていたことがとみに指摘されている。秦の全国統一の前に約五五〇年つづいた春秋戦国時代の動乱の只中、西側内陸部から圧されるかたちで沿海側の斉や燕などの地域から朝鮮半島を下り、この九州北部まですでに大量の民衆が雪崩れ込んできていたと考えられる。

 つまり徐福が黒潮の流れにのって九州北部にたどり着いたとしても、すでにそこには同じ大陸移民が住んで、土地を開拓していた。統一前の戦国時代で秦の暴虐性を身をもって知っていたかれらに「秦の遣いでまいった」とでも脅してその証明となる何か符節、または統一後の始皇帝が鋳造した半両銭という銅銭でも見せれば黄門様然、すぐに王の位に徐福がついたとも考えられるが、実情はそう単純なものではなかっただろう。

 九州北部では前三世紀頃から大規模な“戦争”が繰り広げられていた。首のない人骨や肩や首だけの人骨、手負いの人骨が多数発掘されている。童男童女数千人のみを乗せ軍備は整えていなかった徐福にとって、それは意想外のことであっただろうし、あるいはそのときに船団が離れ離れになったことが、現在の日本国内徐福伝承地の点在化につながっているのかもしれない。

 九州北部をあとにしてさらに東へ針路をとり、狭隘な関門海峡あるいは豊予海峡をすり抜けて瀬戸内海を通ったか、太平洋側から回り込んだかはわからないが、まもなく見えてくる行く手を防ぐ楯のような陸――紀伊半島を、現・大阪、和歌山側から裏へ回りこみ半島を隠れ蓑のようにすると、そこが現在の和歌山県新宮市・三重県熊野市一帯である。

 熊野とは、“隈野”という由来らしく、もとより西方から見た隠れ家的要素の強い地域だったのだろう。地元の『新宮市史』には、この地方の農耕の開始が西日本一般より約二〇〇年遅いことの記載がある[4]

 熊野が徐福の渡来地だという文献記録は、絶海中津が明の太祖・朱元璋に拝謁した際に賦し、次韻した詩の応酬(「熊野峰前徐福祠、満山薬草雨余肥。只今海上波濤穏、万里好風須早帰。」(絶海中津)・「熊野峯高血食祠、松根琥珀也応肥。当年徐福求僊薬、直到如今更不帰。」(朱元璋))などを皮切りに、橘南谿『西遊記』や曲亭馬琴『椿説弓張月』などの物語の分野まで多岐にわたって存在している。

 新宮市内には徐福公園があり、園内には徐福の墓が設けられている。その墓碑は江戸時代、紀州藩祖・徳川頼宜が儒臣・李梅渓に書かせたものである。園内の販売所には徐福サブレや徐福茶などが置いてあり、駅前には「ビジネスホテル徐福」の看板も見える。

 熊野川を渡って三重県側へ行き、その熊野市内には波田須(はだす)という現在人口約二〇〇人程度しか住んでいない地区がある。ここが徐福の渡来地として有力視されている地区の一である。

 新井白石『同文通考』(一七〇五年頃)の中に「今熊野の近くにはだすと云処ありて、文字には秦住と書くとなん。土人相伝へて徐福の住める旧地なりと云ふ。」とあるよう、この波田須は明治前まで秦の人が住んでいたという意での「秦住」、または「秦栖」という漢字があてられていた。

 余談ではあるが、そもそもなぜ「シン」を日本の訓読で「ハタ」と読むのだろうか。

 これは一つの推論にすぎないが、韓国語では「海」のことを「パダ」と言う。古代朝鮮では「パタ」だったそうである。つまり、徐福一行はこの熊野に着く前に朝鮮半島にも立ち寄っていた可能性が高く(済州島などにも伝承がある)、「海」から来た人ということで「パタ」と呼ばれ、熊野に到着して言語の通じない未開の民を相手に、自分たちのことを「秦」と書いて「パタ」と読み、紹介したのではなかろうか。ちなみにハタも、機織のハタももとはこの「秦」から来ていると言われ、「羽田」という名字も元は「秦」だったのだという。羽田孜・元首相は徐福の末裔を自称し、現在日本徐福会の名誉会長についている。

 波田須の伝承によると、徐福は波田須に到着した後、土木・農耕・捕鯨・中国の医術や窯を地区内に作って焼物の技術を、地元民に伝えたのだという。現在も徐福神社がその神木である大きなクスノキとともに地区の中心部に聳えており、周囲の垣には徐福が探し求めたという不老不死の仙薬・クスノキ科の天台烏薬てんだいうやくが茂っている。白血球の殺菌作用などに効能があるらしいが、どう煎じても、不老不死になることはないらしい。

 徐福ら大量の中国人が来たことで、この地方には中国人の血が今も流れているのではとうがつことができる。この地方から中国人の血が日本全国に拡散していったのではと考えることも一方ではできる。これに関してはこの場であまり多くを書き記すつもりはない。しかし司馬遷『史記』の記載に、徐福は「得平原广泽,止王不来」とあることは事実なのである。

 この熊野には海と、霊験あらたかとも表象される鬱蒼とした山しかなく、「平原广泽」はない。それは既述した『新宮市史』にもあったよう、農耕が他地域より二〇〇年遅れていた土壌を古来から現在まで持ち運んでいる地盤なのである。つまり、徐福はこの到着地を出発地として、「平原广泽」を他に見つけ、支配して王にならなくてはその司馬遷の記載とはつじつまが合わなくなる。日中戦争終結後の一九五〇年、『日本神武開国新考』が中国国内で上梓された。内容は「徐福=神武天皇」である。

( 続きは本篇にてお楽しみください )


[1]  中国側の文献で、徐福の到着先を最初に「日本」と明確に記したのは、九五八年釈義楚しゃくぎそ義楚六帖ぎそりくじょう』。

[2]  記載個々の具体的な性質の違いについては、「吉田靖雄「近年中国における徐福研究の盛況と『史記』記事の吟味」 『大阪教育大学紀要』第Ⅱ部門第53巻第1号 二〇〇四年」を参照されたい。 

[3]  九州北部に限らず国内どの伝承地においても、徐福は農耕や漁業などの技術や文化を地元に教えた人物として伝えられている。ちなみに、熊野大権現を祭った寺社のある伝承地(鹿児島県串木野市など)もある。

[4] 新宮市史史料編編さん委員会『新宮市史 年表』 新宮市 一九八六年